同範囲の通常本文へ
前のセクションへ 目次へ戻る 次のセクションへ
古代ギリシア(カッコ抜き)
地中海世界の気候風土
地中海性気候は夏は高温乾燥、冬は温暖湿潤の気候であり、夏期の農業は基本的に不可能である。また、地中海沿岸は石灰岩質のやせた土地が多く大河や大平原がないため、果樹栽培や羊の牧畜などが農業の中心となっている。穀物の生産高は低い。このような条件によって強大な権力を持ってして専制政治を行う王を生まれなかったため、ギリシアの人々は海岸線沿いに諸都市を建設し、自由な市民の文化を開花させていった。
当時から地中海は交通路、商業路として文化相互伝播路としての役割を果たしており、その相互交流が地中海地域の文化的まとまりを大きく手助けした。
地中海沿岸には多くの民族が住んでいる。ヨーロッパ側にはインドヨーロッパ語族の人々が、東海岸にはセム系の諸族が、アフリカ側にはセム・ハム系の諸族が、それぞれ生活している。エーゲ文明やギリシア文明、それにローマ文明で扱うのは、全てインドヨーロッパ語族である。
エーゲ文明
クレタ(ミノス)文明は、紀元前20世紀から紀元前12世紀にかけてクレタ島で存在した、地中海世界で最古の文明である。この文明を築いた民族は系統不明でクレタ人と呼ばれており、その詳細は不明である。クレタ文明は中心地はクレタ島の( 1 )で、1900年にイギリスのエヴァンズが( 1 )宮殿を発掘した。クレタ文明のもとでは、絵文字や、線文字Aが使われていたが、未解読なので、その意味はよく解っていない。しかし、王は祭祀王的性格の位置づけであり、東地中海地方の交易を掌握していたらしいことは確認されている。この国では青銅器が用いられており、上下水道など高度な設備を持つ宮殿があった。宮廷の壁画や、陶器などから、海洋的、写実的な文化的性格であったことがうかがわれる。後にギリシア人の第1波であるアカイア人が南下し、征服されて滅亡した。
( 2 )文明は、紀元前1600年頃から紀元前1200年頃にかけてギリシア地方に栄えた文明である。アカイア人が建てた文明で、中心地は( 2 )、( 3 )などであった。( 2 )文明の主な遺跡の発掘者はドイツのシューリマンである。彼は後に、( 4 )の遺跡の発掘を手がけている。( 2 )文明にはかなり整備された政治機構が存在し、初期的な官僚組織があったことがうかがわれる。( 2 )文明では線文字Bといわれる文字が使われていた。こちらは、1962年にイギリスの( 5 )によって解読されている。( 2 )文明でもクレタ文明同様に青銅器が使用されており、巨石を積み重ねた城塞、壁画が描かれた宮殿、豪壮な円頂墓(トロス)などが発見されている。( 2 )文明の壁画の画風はクレタ風と呼ばれ、抽象化、図案化されたものであった。しかし、この文明は鉄器を持ったギリシア人である( 6 )人の南下によって滅ぼされ、その後しばらくの間は記録が残っていない。この後しばらくの歴史的空白の時代は暗黒時代と呼ばれている。
( 4 )文明は小アジアの( 4 )にあった文明で、アカイア人によって滅亡した。ギリシア人との間での長期にわたる( 4 )戦争は、ホメロスの叙事詩( 7 )に詠われている。その遺跡を発掘したのはドイツ人のシューリマンである。彼は幼い時イリアスを知り、その存在を信じて発掘を続け、詩の通り遺跡を発見したのである。
ポリスの成立
紀元前20世紀頃、ギリシアの北方の森林地帯にすんでいたアカイア人が、第一波として南下してきた。この原因はいろいろと考えられるが、人口の増加にと食糧不足から起こった飢餓や、北方であるための寒さなどが考えられる。アカイア人たちは地中海最古の文明であったクレタ文明を破壊した。
その後紀元前12世紀には、ギリシア人南下の第二波としてドーリア人が南下してきた。ドーリア人たちは鉄器を持って、ペロポンネソス半島やクレタ島などに進入し、そこに元あった( 2 )文明などを破壊した。
ドーリア人が進入した後各地で混乱が起こり、先住のアカイア人はドーリア人に服従したか、アイオリス人や、イオニア人のように移住を余儀なくされるかのどちらかの道をたどった。この後、400年間は記録が残っておらず、暗黒時代と呼ばれている。暗黒時代は民族移動の混乱によって小国家の崩壊が起こり、小共同体に分離するなど国家としてのまとまりは弱くなった。反面、鉄製の農具が普及したり、王への貢納が不要になったりするなど、農業生産の向上に結びつく出来事も同時に起こった。
紀元前8世紀頃になると、貴族を中心にある特定の場所に集住(シノイキスモス)するようになり、経済的、軍事的理由などによって交換と共同防衛のためにポリスができていった。このようなポリスは( 7 )型と呼ばれ、代表的なものとしてはアテネがあげられる。一方、先住民の征服や支配のためにできたポリスも存在し、これはラコニア型と呼ばれる。ラコニア型の代表例としては、ドーリア人が建てた( 8 )が挙げられる。
ポリスは、城壁で囲まれた中心部に丘や小山(アクロポリス)があり、この部分が中心城塞や神殿を形成した。また、中央には広場(アゴラ)があり、公共生活や経済活動の場となっていた。ポリス内部には貴族や裕福な農民が居住していたが、一方、周辺部には耕地が広がり、一般の農民が居住してオリーヴ、ブドウなどを栽培していた。
ポリスの構成員である市民は経済的に自立しており、大土地所有者である貴族と、割当地(クレーロス)を所有する中小自営農民の平民からなっていた。彼らは自由民であり、官吏、兵士、裁判官として公共生活に参加し、共同体を構成していた。このように、各ポリスはそれ1つで役割が完結しており、独立国家として対外的に排他的、閉鎖的であったとされる。そのためか、ギリシア全土としての統一はなされなかった。しかし、ギリシア人は同一民族としての同胞意識を持っていたようで、ギリシア語をヘレネス(麗しい言葉という意味)と呼び、他言語をバルバロイ(聞き苦しい言葉という意味)と呼んで区別し、民族意識はあったようである。宗教はオリンポス12神に代表される多神教で、オリンピア競技会や( 9 )の神託などの行事があった。ギリシア神話やホメロスの詩などが現在に残っているが、これらの文物から推測する限り、文化的にペロポネソス半島には統一的なものがあったと考えられる。
ポリスの発展
ポリスでは、参政権を得るための条件は軍役義務を果たすことであった。紀元前8世紀頃からは貴族共和制がひかれていたが、それは貴族達が重装騎兵として国防を独占的に担当していたからである。
紀元前8世紀の中頃から、紀元前6世紀にかけてポリスの人口が増え、人口維持が様々な理由から困難になったため、地中海沿岸や黒海沿岸に、シラクサ、タレントゥム(現在のタラント)、マッシリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、( 10 )(後のコンスタンチノープル→現在のイスタンブル)などの植民市が建設された。このようにして植民市が多数建設されるにつれ、ギリシア人の市場は拡大していった。そのため、紀元前7世紀までにはギリシアでも小アジアのリディアのように貨幣の鋳造と使用が始まり、交易が行われた。こうして商業活動が活発になると平民が富裕化し、その結果経済的地位が向上してくる。さらに、武器価格が低下したために、平民を主体とした( 11 )部隊ができ、貴族の政治独占に抗議や抵抗を示すようになった。一方、商業化は多数の負債者を生み、平民が没落して無産市民になったり、ついには債務奴隷となるなどの弊害も顕在化していった。こうした、貴族との抗争や無産市民の問題などでポリス内部ではよりいっそう不満が渦巻くこととなった。
こうした中、紀元前7世紀頃から、貴族と平民の対立解消が試みられ、これが民主制の基礎となった。具体的には、多くの立法者、調停者、僭主が登場した。民主化とは、つまり参政権の拡大のことである。アテネでも民主化に向けては様々な活動が行われた。
まず紀元前624年に、ドラコンの立法と呼ばれる改革が行われた。彼は、慣習法を成文化し、殺人に対する法的制裁を科すなど、貴族の法的独占を打破し、ガラス張りの制度にすることをつとめた。しかし、依然として、政治形態は変わらなかったため、市民と貴族の対立を抜本から解決するものではなかった。
次の改革は( 12 )の調停と呼ばれており、紀元前594年のことであった。彼は貴族と平民の調停を行い、大きく3つの改革を行った。1つ目は、財産(金権)政治と呼ばれる仕組みで、財産に応じた権利、義務を設定した。2つ目は土地を抵当にした借財の帳消しを行い、市民の経済基盤の確保につとめた。3つ目は身体を抵当とした借財の禁止で、平民の債務奴隷化を防ぐ目的で行われた。このように、相当強引な方法で、平民と貴族の対立を緩和しようとしたが、依然として無産市民(プロレタリアート)の問題が残り、不満はくすぶり続けた。
そのような中で、紀元前561年から、平民の支持を受けた( 13 )が違法に政権を担当する僭主として君臨した。彼は、貴族を圧迫して、土地の再配分を進め、中小農民の保護育成に力を注ぎ、アテネ市の整備と美化に努めた。彼の政策は平民たちに大きな支持を得て、38年間も続いたが、彼の息子であるヒッピアスは無能で、政治を混乱に陥れてその座を奪われた。
その後、紀元前508年から、( 14 )が、民主制の基礎を築いていく。国政、政治制度の抜本改革を行い、10部族制の創設、500人会など、貴族に有利だった政治制度を平等化し、( 15 )制を導入、僭主の登場を防止した。この時点で、無産市民を除くほぼすべての人が選挙権を得、ひとまず平民と貴族の対立は収まった。
ペルシア戦争
ペルシア戦争は、アケメネス朝ペルシア帝国の西進政策に伴って、ペルシアがイオニア地方を支配し、諸都市の政治に介入したため、イオニア地方のポリスであるミレトスがアテネの援助を得て反乱を起こしたことに端を発して起こった戦争である。
第1回目のペルシア戦争は、紀元前492年にダレイオス1世が艦隊を派遣したが、アトス岬沖で難破してあえなく失敗。第2回目は、大王がギリシアに臣従を要求し、それが断られたために軍隊を派遣したが、紀元前490年( 16 )の戦いでギリシア連合軍が勝利した。その後、( 17 )の元でアテネはペルシアの次なる来襲に備えて海軍力の増強に努めた。そして第3回目は、ペルシアのクセルクセス1世が親征し、全ギリシアが決起してこれに対抗した。紀元前480年、テルモピレーの戦いでスパルタ陸軍は全滅し、ペルシア軍はアテネに迫った。この際、アテネ市民は町から一時逃亡するが、離れた場所で体勢を立て直した。そして、紀元前480年の( 18 )海戦でギリシア連合軍が大勝利したことで、戦争の流れが変わった。この戦いは、テミストクレスが指導し、無産市民が軍艦のこぎ手として活躍した戦いでもあった。この戦いに勝利したアテネ軍は流れに乗って、( 19 )の戦いで紀元前479年に勝利し、ギリシア連合軍の勝利が確定した。この後も小規模な戦いはあったが、紀元前449年に結ばれたカリアスの和約によって講和が成立し、ペルシア戦争は幕を閉じた。無産市民が戦いで活躍して事によって、無産市民も国防義務を果たしたことになり、参政権を獲得した。ペルシア戦争のギリシア側からみた意義としては、ポリスの自由がオリエントの専制に勝利したことであるといえる。
古代民主制の確立
ペルシア戦争の勝利によってギリシア世界の事実上のリーダーとなったアテネは、紀元前478年に次なるペルシアの来襲に備えて( 20 )を設立し、エーゲ海のデロス島に共同貯金の金庫をおいた。ところが、紀元前454年にアテネに金庫を移してしまい、同盟の資金を流用するなどアテネの横暴が目立つようになった。
そのような中で、アテネは全盛期を迎える。紀元前443年から紀元前429年間では( 21 )時代といい、これがアテネの民主制の全盛期であった。このことは同時に古代ギリシアがこのころ全盛であったということでもある。( 21 )は、「将軍」職にあり、アテネの政治を指導していた。彼は民主主義政治を実現し、アテネの再建と文化の振興に努力した。その反面その資金として( 20 )の資金を流用し、ギリシア諸国からの反感を買った。
ところで、この古代民主制のもとでは、18歳以上の男性市民からなる( 22 )が政治的意決定の最高機関とされ、そのほかの官職や、裁判の陪審員は全市民の中から抽選で選ばれていた。これらとは別に将軍職というものがあり、これは選挙によって選出され、再選が認められていた。そうして君臨したのが( 21 )である
古代民主制の現在の民主制との違いは3つあり、1つ目は参政権を18歳以上の男性市民に限定されており、女性、外国人、奴隷は除外されていたこと。3つ目は奴隷制度を基礎とした制度だったこと。そして最大の相違点は直接民主制だったことである。この直接民主制が、後に衆愚政治を招き、ギリシアを衰退へと追いやっていく元凶ともなった。
奴隷制度
奴隷社会の典型的な例として挙げられるのは、紀元前5世紀や4世紀のギリシアにおけるポリス社会や、共和制後期から帝政初期の古代ローマ社会などである。ギリシアの場合、ポリスの奴隷供給源は戦争による捕虜奴隷と借金による債務奴隷であった。これらの奴隷は奴隷市場を形成し、アテネなどでは奴隷の売買が活発に行われていた。一方、その用途は農業や商工業、アテネ近郊の( 23 )銀山などにみられる集団強制労働、そして家内奴隷など幅広く、市民の生活一般にわたって奴隷の果たした役割は非常に大きかった。
この奴隷たちのおかげで、市民たちには余暇(スコレ)が生まれ民主的な政治や文化が開花する助けとなった。奴隷に仕事をやらせている間に民会に出席したり、アゴラでの世間話をしたりと、その過ごし方はまちまちであったが、奴隷制ゆえの市民の自由人意識や特権意識はギリシアの文化へ反映された。
アテネとスパルタ
ギリシアのポリスは成立の仕方によって2つに大別できる。1つ目はアテネをはじめとするアッティカ地方のポリスで、イオニア人の集住によって形成されたものである。このようなポリスでは民主化が進展し、平等な市民のポリスへと発展していった。
一方、スパルタをはじめとするラコニア地方では、少数のドーリア人による征服型のポリスが広がり、厳格な階級構成が行われた。スパルタの場合、最上階級に属し完全市民として都市の中心部に住居したドーリア人たちをスパルティアタイと言い、その下に、劣等市民で商工業に従事していた( 24 )、被征服の先住民で、農業に従事していた( 25 )などが従属していた。スパルタの強力な縦型支配は、その創設者の名にちなんで( 26 )体制と呼ばれている。スパルタでは厳格な軍国主義政策と鎖国政策がとられ、徹底した集団教育が行われた。また、あくまでも支配者として君臨していたスパルティアタイは商工業や農業を行うことは許されていなかった。これは少数のドーリア人の専制的支配体制を維持するためであったが、もともとかなり無理のある支配体制であったといえる。
ポリス社会の没落
ギリシアのポリス社会末期は、抗争と内紛の連続であった。次々と覇権を握るポリスが入れ替わり、ポリス社会も、ギリシア全体も衰退の度を深めていった。
紀元前431年から紀元前404年にかけておこった( 27 )戦争は、アテネがデロス同盟の資金を流用するなど横暴をはたらき、これに不満を持つスパルタなどのポリスが( 27 )同盟を結成し、戦争という形で解決を図ろうとしたものである。この戦争ではスパルタがアテネを包囲し、攻城戦が続いていたが、戦争の途中でペストが流行したり、アテネでは( 21 )が死亡したりと、長期にわたる泥沼の戦いとなった。結果的にはペルシアの援助を受けてスパルタが勝利したが、そのころにはギリシア全体が疲弊し、もはや昔の華々しさはなくなっていた。
この戦争の結果スパルタが全ギリシアの覇権を掌握したが、紀元前395年から紀元前386年にはアテネがスパルタに対する報復戦としてコリント戦争を仕掛け、さらに紀元前371年にはレウクトラの戦いが起こって( 28 )がギリシアの覇権を握るなど混乱が続く。その後の紀元前338年に( 29 )がカイロネイアの戦いでギリシアの主導権を握るなどギリシアの主導権は二転三転し、次第に衰弱の度を深めていった。
このようなポリス相互の慢性的抗争によって農地が荒廃、下層市民は困窮し、離農が進んだ。アテネでは政治が衆愚政治に堕落し、( 30 )による世論操作などによって混乱が起こり、直接民主制の弱点を露呈してしまった。このような混乱結果として貧富の差がますます拡大し、市民団の社会的、経済的平等が維持できなくなった。こうして傭兵が横行し、市民の義務である兵役の原則も崩壊してしまう。これはポリス社会が、今や完全に崩壊していることをも意味したと言える。
ギリシア文化の特色
ギリシア文化は人間中心の文化であることだといえる。宗教においては人間的な感覚を持った神々が考えられていたし、美術においては人間美を描くことがよしとされた。また、合理的で客観的な精神が随所に現れており、歴史においては市民の立場からの記述があるなど、市民の文化といえる部分が大きい。哲学や自然科学においては自然や人間を合理的に探求し解釈していた。これらが大雑把にみたギリシア文化の特徴である。
ギリシアの文学
ギリシア最古の文学とされているのは、ギリシア人が積極的の海外植民を行っていた、紀元前8世紀頃の叙事詩とされるホメロスの『( 31 )』や『( 32 )』である。この他にもこの時期の文学として、ヘシオドスの『( 33 )』や「神統記」などが有名である。このころは、ギリシアのポリス社会が成立した頃で、これから発展を遂ようという時期でもある。
社会が発展するにつれて、文学の分野では叙情詩が盛んになた。紀元前7世紀頃、平民の勢力が向上しつつあるときに、( 34 )という女流詩人が活躍したし。そのほかにもアナクレオンや、オリンピック競技の賛歌で有名なピンダリスなどの作家も出てきた。
紀元前5から4世紀になるとアテネの民主制はほぼ完成し、市民は公共の野外劇場で日常的に観劇するようになった。その劇の作家で有名なのが、「アガメムノン」を書いた( 35 )、「オイデュプス王」を書いた( 36 )、「メディア」を書いた( 37 )の3人で、この3人は三大悲劇作家と呼ばれている。この三大悲劇作家に対して、喜劇を作ったのが( 38 )で、「雲」や「女の平和」などの皮肉的な喜劇を生み出していった。
ギリシアの美術
ギリシアの美術は人間や神を理想的に描くことがよいとされ、均整と調和を重んじた。
古代ギリシアで有名な美術は、彫刻がほとんどである。ペリクレスの友人でパルテノン神殿の美術監督を務め、「アテネ女神像」を作った( 39 )や、「汗をかきとる人」を作ったリシッポス、「槍をかつぐ人」を作ったポリュクレイトス、「幼いディオニドスをあやすヘルメス」を作ったプラクシテネスの4人が特に有名な彫刻家である。
古代ギリシアの建設物として重要なのが神殿の柱の形状である。これは時代によって様式が異なる3つの種類がある。( 40 )神殿の柱に採用されているのは簡素で荘重なドーリア式、エレクティオン神殿の柱に採用されているのが軽快優美で柱頭の渦巻きに特徴のある( 41 )式、ローマのパルテオン神殿に採用されているのが技巧的で繊細な( 42 )式と呼ばれる。
ギリシアの学問
ギリシアの学問として、歴史学と哲学を挙げることができる。まず歴史学では、歴史の父と呼ばれる( 43 )がペルシア戦争の歴史を記述した「歴史」が有名で、その中で「エジプトはナイルの賜」との名言を残している。もう一人、科学的歴史の祖と呼ばれている( 44 )はペロポネソス戦争を記述した同じく「歴史」という書物で有名である。
自然哲学は小アジアのイオニア地方のミレトスで発生し、イオニア自然哲学と呼ばれている。アルケー(万物の起源)や、ロゴス(法則)を探求した。
哲学の祖と呼ばれる( 45 )は、万物の根元を「水」とした。彼は日食を予言したことでも有名である。アナクシマンドロスは、万物の起源を「アペイロン(無限定なもの)」とした。アナクシメネスは、万物の根源を「空気」とし、ヘラクレイトスは「火」とした。彼は「万物は流転する」という名言を残している。( 46 )は万物の根源を「数」としたことで有名であるし、デモクリトスは「アトム(原子)」とした。彼は唯物論の祖とされている。
ギリシアでは、民主政治が発展すると民会や裁判などでの弁論や修辞を行い、人々を納得させることが必要となった。ここで、その弁論の専門的教師として、( 47 )と呼ばれる人々が出現した。このころになると考察の対象が転換され、「自然一般」から「人間・社会」へと移ってきた。そんな中、最大のソフィストと呼ばれた( 48 )は「人間は万物の尺度である」との言を残し、相対主義、会議主義の立場を貫いた。また、同じくソフィストのゴルギアスは「客観的真理は存在しない」との言を残している。しかし、後にソフィストたちは、ポリスを衆愚政治に陥れた詭弁者として批判的な見方をされるようになった。
三大哲学者の一人に数えられる( 49 )は、ペロポネス戦争後のアテネの衰退期に、「絶対的な真理」の存在を主張し、「汝自身を知れ」「無知の知」との名言を残している。
三大哲学者の二人目は、( 50 )である。彼は、師匠ソクラテスの言動を「対話篇」にまとめた。また彼は、「( 51 )論」と呼ばれる理想界と現実界からなる二元論的世界観を考え出している。そして、「哲人政治」という理想国家論を提唱した。これは物事をよく考える哲学者が政治をするか、政治家が哲学をたしなむようになれば政治はより理想的なものになるという考えである。また、アテネに学園「アカデメイア」を開設し、哲学の普及発展に努めた。
最後の三大哲学者は、( 52 )である。彼は「万学の祖」と呼ばれ、ギリシアの諸学問を体系化した人である。彼の生きた時代はマケドニアにギリシアが吸収されかけている時期であり、それ故に彼はアレクサンドロスの家庭教師を努めていた。( 52 )は「人間はポリス的動物である」との政治学上の言を残している。また、彼はアテネに学園「リュケイオン」を開いた。
これらの文化は後の東ローマやイスラム世界に影響を与え、中世ヨーロッパに逆輸入されて、思想に影響を与えた。
解答
1:クノッソス 2:ミケーネ 3:ティリンス 4:トロヤ 5:ヴェントリス 6:ドーリア 7:アッテカ 8:スパルタ 9:デルフォイ 10:ビザンティオン 11:重装歩兵 12:ソロン 13:ペイシストラトス 14:クレイステネス 15:オストラシズム(陶片追放) 16:マラトン 17:テミストクレス 18:サラミス 19:プラタイア(プラテーエ) 20:デロス同盟 21:ペリクレス 22:民会 23:ラウレイオン 24:ペリオイコイ 25:ヘロット(ヘイロータイ) 26:リュクルゴス 27:ペロポネソス 28:テーベ 29:マケドニア 30:デマゴーゴス 31・32:イリアス/オデュセイア(順不同) 33:労働と日々 34:サッフォー 35:アイスキュロス 36:ソフォクレス 37:エウリピデス 38:アリストファネス 39:フェイディアス 40:パルテノン 41:イオニア 42:コリント 43:ヘロドトス 44:トゥキディデス 45:ターレス(タレス) 46:ピタゴラス 47:ソフィスト 48:プロタゴラス 49:ソクラテス 50:プラトン 51:イデア 52:アリストテレス
前のセクションへ 目次へ戻る 次のセクションへ
同範囲の通常本文へ