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古代オリエント(カッコ抜き)


古代オリエント(総論)

 オリエントは現在の中近東地方に位置する。ヨーロッパから見て東方であるというところから、ラテン語の「オリエンス(太陽の昇るところという意)」からオリエントと名付けられた。

 オリエントと呼ばれる範囲は広く、自然環境は場所によってかなり違う。小アジアからアラビア半島にかけては乾燥地帯であるために遊牧が行われ、エジプトやメソポタミアは定期的に氾濫する河川があることから農耕が行われてきた。農耕地帯であったエジプトとメソポタミアを比較してもやはりかなりの違いがある。エジプトは砂漠と海によって周囲を隔てられた閉鎖的地形のため外部からの進入を受けにく、長い間ハム語族のエジプト人の国がつづいたが、一方メソポタミアの周囲は開放的地形であったため、絶えず他民族の侵入を受けて支配民族の交代がおこった。また、地中海東岸地方では平地は狭く農業は発展しなかったが、海に面しているという地の利を生かした中継貿易が発達した。

 古代オリエントでは強大な専制的王権が確立されており、こうした統治のあり方は「オリエント的専制」と呼ばれる。強大な王権が存在し得た理由は、大規模な潅漑や治水工事のために、非常にスケールの大きな共同作業が必要だったからである。また、王は強い宗教的権限をもち、最高の神官として( 1 )政治が行われていた。この当時は自然の力が強大だったため、神官が高い地位についていたのである。

 一方、専制のデメリットもあった。専制政治で人々の生活が厳しく制限されており、自由な思想や思考は発達しなかった。


メソポタミアと小アジア

 メソポタミアとは( 2 )、( 3 )川の流域のことを示す。これは、ギリシャ語の「2つの川の間の地方」という言葉に由来している。この地方では、潅漑農耕による文明が発生し、東西交通の要衝として栄えた。しかし、周辺の地形が開放的であったから、諸民族の進入と興亡が繰り返された。

 紀元前2700年頃、( 4 )人がメソポタミア南部に多数の都市国家を建設した。代表的なものに、( 5 )、( 6 )、ラガシュ、ウンマなどがある。紀元前25世紀頃にはウル第1王朝(都市連合国家)が全盛期を迎えた。この当時、これらの都市連合国家では( 1 )政治が行われた。王は最高の神官であり、戦士であり、王が都市の神をまつり、政治、経済、軍事の実権を握って支配していた。

 ( 4 )人の文化を特にシュメール文化という。その特徴として、高度な青銅器の使用や、壮大な神殿、( 7 )、宮殿、王墓などの建設が挙げられる。また、( 8 )文字が作られ、粘土板に刻んだ記録が残されており、後に進入してくる諸民族も( 8 )文字を使用した。( 8 )文字の解読の手がかりをドイツのグローテフェントが作り、それを元にイギリスの( 9 )が解読した。この解読の際の資料となったのは、ベヒストゥーン碑文と呼ばれる遺物である。このほかにも実用的な学問として、60進法や、( 10 )暦、占星術などが生まれた。

 紀元前24〜20世紀にかけて、( 11 )人(セム系)がメソポタミアに進入し、都市連合国家を建設して、( 4 )人を支配した。この全盛期時の王は、サルゴン1世で、メソポタミア初の統一国家を形成した。

 紀元前2000年頃、ウル第3王朝が成立し、( 4 )人の覇権が回復する。このときの王がウル・ナンムである。彼が、現在わかっている最古の成文法を制定した王である。

 紀元前20世紀頃になると、アムル人がメソポタミア地方に侵入し、( 12 )王国を建国した。この王国の全盛時の王は( 13 )王で、全メソポタミアの統一を果たし、治水や潅漑に努めた。また彼は、中央集権の政治体制を推進し、( 13 )法典を制定したことで有名である。この法典の特徴は刑法部分に( 14 )の原理が取り入れられていることや、身分の差異によって刑罰が違うなど身分法的な側面があったことなどである。


インドヨーロッパ語族の侵入

 紀元前20世紀頃からインドヨーロッパ語族が相次いでメソポタミア地方に進出し、先住民を征服、支配した。

 小アジアに作られたのが( 15 )王国で、都はボガズキョイに置かれていた。建国は紀元前18世紀頃と考えられており、紀元前15世紀にはオリエントで初めて( 16 )の使用を開始し、エジプトの第18王朝と抗争した。( 15 )は( 16 )の生産方法を他国には伝えなかったが、ヒッタイトが滅んだ後、この地域に製鉄法が広まった。

 北メソポタミアには( 17 )王国が、南メソポタミアには( 18 )王国がそれぞれ建国された。


古代エジプト王国の歴史

 新石器時代の末にハム系の民族がエジプトに定住し、( 19 )と呼ばれる都市国家が多数成立した。ナイル川は毎年決まった時期に氾濫するため、治水工事のために強力な王権を持った指導者が出現した。その後、( 19 )の地域的統合が進み、エジプトは大きく上エジプトと、下エジプトの南北2地域に統合される。上エジプトはナイル川上流(南方)、下エジプトはナイル川下流(北方)を指す。

 エジプトの古王国時代、都は下エジプトの( 20 )で、( 21 )による神権政治が行われていた。第3から第4王朝時代はピラミッド時代と呼ばれ、多くのピラミッドが建てられた。その中でも、最大のものとして( 22 )王のピラミッドは有名である。この時代の文化は後の王朝に長らく受け継がれていった。

 中王国時代には都が上エジプトの( 23 )になった。しかし、中王国は( 24 )の進入によって滅ぼされ、その後約100年間にわたって異民族である( 24 )の支配を受けることになる。

 新王国は、第18王朝が( 24 )を撃退してから始まり、トトメス3世の時、シリア、メソポタミアに侵攻し、版図を最大とした。このころをエジプトの帝国主義時代ともいう。

 アメンホテプ4世は、紀元前14世紀半ばに政治改革を企図し、伝統や、神官勢力の排除に努めた。そして、新都テル=エル=アマルナへ遷都し宗教改革を行うと同時に、自らの呼称を( 25 )と改めた。宗教改革の内容は、多神教から一神教への変革で、アトン一神のみを信仰するよう強制した。このころの芸術は、伝統を廃し、写実的でありアマルナ芸術と呼ばれる。しかし、彼の死後都は元に戻され、改革前の状態に戻された。

 その後、ラムセス2世が即位すると、エジプトはシリアへ進出し( 15 )と激突、カディッシュの戦いが起こった。その後( 15 )と平和条約を結んだが、これが現在確認されている世界最古の国際条約である。

 紀元前7世紀には( 26 )の侵攻と支配にあう。その後、独立26王朝が独立を回復したが、紀元前525年に( 27 )によって滅ぼされ、古代エジプト王国の歴史は幕を閉じた。


エジプトの文化

 エジプトの宗教は多神教であり、王は太陽神の子とされて現人神としてあがめられた。太陽神は、時代によってラー、アモン、アモン=ラーと呼ばれるが、いずれも「太陽神」であるため違いはよく解らない。当時は死者復活の思想が見られ、オシリス神話や死者のミイラ化、( 28 )(その人の生前の行いを神聖文字で示した書物)の作成、王侯によるピラミッドの建設などが行われた。

 エジプトで使われた文字としては、( 29 )(=神聖文字)、神官文字、民用文字の3種があり、状況により使い分けていたようである。これらは石碑や、パピルスに記されており、フランスの( 30 )が( 31 )石を手がかりに解読した。なお、( 31 )石自体はイギリスが所有しており、大英博物館に所蔵されている。

 そのほかの文化として、エジプトでは( 32 )暦が使われ、10進法、天文学、測地術などの学問が発達した。


地中海東岸
 シリア、パレスチナ地方は、平地は狭いが、海陸の交通の適地であったため、古くから中継貿易の拠点となり、諸民族の活動が活発だった。反面、地の利がよかったため、近隣諸大国の支配をたびたび受けることとなる。

 紀元前15世紀ごろには、セム系の民族が移住、活動していたが、紀元前12世紀頃、「( 33 )」と呼ばれる集団が進入し、エジプト、ヒッタイト勢力が衰退し、諸民族が活動するようになった。

 地中海東海岸一帯には( 34 )人が住み着き( 35 )、( 36 )、ピュブロスなどの都市を建設した。( 34 )人は海洋民族として、地中海貿易に従事した。彼らの全盛期の時、地中海沿岸にカルタゴ(現在のチュニジア付近)などの多数の植民市を建設した。( 26 )、( 37 )帝国時代は、厳しい政治によって貿易活動が衰退したが、( 27 )時代には寛容な政策によって再び活気づいた。フェニュキア人たちが使っていたフェニュキア文字は表音文字であるアルファベットで、西へと伝播してギリシア文字に影響を与えた。

 シリア地方では( 38 )人が( 39 )を中心に紀元前13〜8世紀にかけて内陸中継貿易に活躍した。彼らの使用していた( 38 )語は国際商業用語として西アジア一帯に広がり、西南アジアの文字の元となり、東へと伝播した。

 紀元前15世紀頃にパレスチナ地域へ移住してきた( 40 )人は、その一部が新王国時代のエジプトへと移住していった。しかし、エジプトで彼らは虐待を受け、( 41 )を指導者として、エジプトを脱出した。その後モーゼは、神から啓示を授かり、宗教戒律である「十戒」や、偶像崇拝の禁止、唯一神ヤハウェへの信仰、選民思想などを元とするユダヤ教を創立した。紀元前1000年頃には、( 42 )に都をおく( 40 )王国が建国され、( 43 )王や、( 44 )王の時代に全盛を迎える。しかし、紀元前920年頃に王国は分裂してしまい、北部は( 45 )王国、南部は( 46 )王国となった。その後北部は紀元前722年、( 26 )により滅亡し、南部の( 46 )王国は紀元前586年に( 37 )王国によって滅ぼされて、紀元前538年まで( 47 )を受けることになる。

 ユダヤ教はほかに例を見ない独特な宗教で、厳しい戒律や、選民思想などが見られ、唯一神( 48 )を信仰する。旧約聖書はユダヤ教の聖書であるが、「旧約」はキリスト教側から見た場合の名称である。このユダヤ教は後のキリスト教の元となった。


オリエントの統一

 紀元前2000年頃セム系民族が北メソポタミアに( 26 )を建国した。( 26 )の中心はアッシュルで、紀元前15世紀頃まではミタンニに服属していたが、紀元前9世紀頃から鉄製武器の使用や、戦車の利活用によって急速に勢力を伸ばし、紀元前7世紀前半のサルゴン2世の時代にはオリエントの統一を達成した。その後、アシュール=バニ=パル王は、都ニネヴェに大図書館を建設し、中央集権的支配を実施し、全国を州に区分、総督を設置し、駅伝制を整備した。しかし、アッシリアは武断政治を行ったため、専制的、抑圧的支配が行われ、諸民族の離反、反抗が相次ぎ、紀元前612年に滅亡した。


4王国の並立

 アッシリア滅亡後のオリエントには4王国が並立した。その1つが( 37 )で、セム系遊牧民であるカルディア人がバビロニアに侵入して建国した国である。全盛期の王はネブカドネザル2世で、当時のバビロニアはバビロンの栄華とたたえられるほどに反映した。このネブカドネザル2世はユダ王国を征服し、( 47 )を行ったことでも有名である。

 次は( 49 )で、インドヨーロッパ語族のイラン人が建てた国である。この国についての資料は少ない。

 3番目は独立を回復したエジプトで、独立26王朝が独立を回復した。このとき都をサイスにおいており、それにちなんでサイス朝ともいわれる。

 最後は( 50 )で、構成民族は不明、交通の要衝である小アジアを支配していた事だけが分かっている。紀元前7世紀の後半には、世界最古の鋳造貨幣を使用していたらしい。この文化は古代ギリシアに影響を及ぼした。


アケメネス朝ペルシア帝国

 ( 27 )帝国はインドヨーロッパ語族のイラン人、アケメネス部族が建国した国である。紀元前6世紀頃にキュロス王がメディアからの自立を図り、メディアを打ち倒したところに起源を置くとされている。その後、紀元前538年には新バビロニア王国を打倒し、バビロンの捕囚を解放した。紀元前530年から、カンビセス王が勢力拡大を押し進め、紀元前525年にエジプトをを征服、ついにオリエントの統一を達成できた。その後( 51 )がでて、西はエーゲ海沿岸から東はインダス川流域までの広大な帝国を作り上げた。

 アケメネス朝ペルシア王国は中央集権的な専制支配であったが、全国を20の州に分け、現地の有力者を( 52 )に指名して支配する寛容なやり方だったため、アッシリアの時のような地方の反乱は起きなかった。中央からは地方に「( 53 )」と呼ばれる監察官を派遣し、地方支配を確かなものにした。また、( 54 )と呼ばれる軍道 (サルデス〜スーサが有名)、駅伝制、貨幣制度、税制を整備した。これらの内政手法は、その後1世紀半の帝国の基礎となり、この形式は古代ローマに継承された。

 その後、紀元前5世紀の前半のクセルクセス王の時に、ギリシアとの間で起こったペルシア戦争に敗北したため、その時点で領土の拡大は止まった。そして、紀元前330年にアレクサンドロス大王の東方遠征で滅亡した。最後の王はダレイオス3世であった。


アケメネス朝の文化

 アケメネス朝は、オリエント世界の文化の統一と継承を行った。当時アケメネス朝において勢いのあった宗教は、( 55 )教で、紀元前7から5世紀頃にツァラトゥストラ(=( 55 ))が創始した宗教である。この宗教は善の神( 56 )と、悪の神であるアーリマンの2神からなる二元論的教義を持つ宗教だった。ゾロアスター教は後にササン朝ペルシア時代に国教化された。



解答

1:神権   2/3:ティグリス・ユーフラテス(順不同)   4:シュメール   5:ウル   6:ウルク   7:ジッグラト(聖塔)   8:楔形   9:ローリンソン   10:太陰   11:アッカド   12:古バビロニア   13:ハンムラビ   14:同害復讐(復讐法)   15:ヒッタイト   16:鉄器   17:ミタンニ   18:カッシート   19:ノモス   20:メンフィス   21:ファラオ   22:クフ   23:テーベ   24:ヒクソス   25:イクナートゥン   26:アッシリア   27:アケメネス朝ペルシア   28:死者の書   29:ヒエログリフ   30:シャンポリオン   31:ロゼッタ   32:太陽   33:海の民   34:フェニキュア   35:シドン   36:ティルス   37:新バビロニア   38:アラム   39:ダマスクス   40:ヘブライ   41:モーセ   42:イェルサレム   43:ダヴィデ   44:ソロモン   45:イスラエル   46:ユダ   47:バビロンの捕囚   48:ヤハウェ   49:メディア   50:リディア   51:ダレイオス1世   52:サトラップ(知事)   53:王の目・王の耳(両方とも)   54:王の道   55:ゾロアスター   56:アフラ=マズダ



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