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内陸アジア(カッコ抜き)
内陸アジアの気候風土
内陸アジアはユーラシア大陸の北東部から西南部にかけての乾燥地帯で、自然条件が極めて厳しく、そこに暮らす民族は遊牧やオアシス農業などでぎりぎりの生活をしていた。その生活は北部の都市や山間部の牧地では家畜を放牧しし、南部のオアシス地帯では農耕と隊商生活を行うというもので、それぞれ草原の民、オアシスの民と呼ばれる。
この地域に古くから居住していた民族としては、東トルキスタンではインド・ヨーロッパ系の諸民族が、モンゴル高原ではアルタイ系のモンゴル人・トルコ人が、西トルキスタンではイラン系のソグド人が挙げられる。
草原の民は生活条件が常に厳しかったため、商業の拡大や軍事の拡張を図り、オアシス地帯に波状的に移住をはかり、オアシスの民は農業や商工業の発展の限界から、隊商による中継貿易によって生活の向上をはかった。これらの活動により、この地域の民族は文化交渉の架け橋となった。
騎馬民族の活動
遊牧騎馬民族は南ロシアの草原地帯からモンゴル高原にかけて生活していた。遊牧民族は新石器時代に西方から移動してきた民族で、その一部が、紀元前7世紀頃南ロシアの草原地帯で活躍して独自の文化を形成した( 1 )の乗馬文化を受容し、騎馬民族化して遊牧騎馬民族となったのである。初期の遊牧騎馬民族として、紀元前3世紀頃からの烏孫、月氏 、( 2 )などがある。
( 2 )はトルコ系、あるいはモンゴル系の民族といわれ、紀元前3世紀までに部族連合を形成し、( 3 )と呼ばれる君主のもとで結束した。秦の始皇帝が蒙恬を将軍として派遣して( 2 )を討伐したため、( 2 )は北方に後退したが、( 4 )の出現によって勢力を拡大し、( 2 )は強大な騎馬遊牧国家を形成した。その領域は東端が中国東北地方、西端が外モンゴル高原、南端はオルドスにまで及び、西方の( 5 )を撃破し、漢を圧迫するまでにその勢力を広げた。
( 5 )はイラン系の民族でタリム盆地の東部に勢力を持ち、中継貿易に従事していた。しかし、オアシスの支配を目指す( 2 )と、ジュンガル地方から南下する烏孫の圧迫に耐えきれず、アム川流域に移って( 6 )を建てた。
前漢の時代、匈奴が長城地帯にまで進出して漢の高祖を破り、以後前漢は和親策をとって婚姻や貢物をした。その後前漢の武帝が反撃を試み、( 3 )はゴビ砂漠の北に後退し、中継貿易の利益を失って衰退していった。その後、匈奴は東西に分裂し、西匈奴は紀元前36年に滅亡する。東匈奴は前漢に服属していたが、紀元後48年に再び南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属して、一部は長城の南に移住したが、北匈奴は長い年月をかけて西進し、4世紀にはフン族としてヨーロッパに侵入したとされる。これは、ゲルマン人の大移動を引き起こし、ローマ帝国を衰退、滅亡させる原因となった。
匈奴に続く諸族
匈奴の後にモンゴルに出現した諸族はおおむね次の通りである。
( 7 )はモンゴル系、あるいはトルコ系とされてる民族で、原住地は遼河地方である。従来は放牧生活を営んでいたが、3世紀の半ばには中国北部へ移住して五胡の有力勢力として勢力を拡大し、紀元後386年には( 8 )を建国して5世紀頃には華北を統一した。
柔然はモンゴル系で、5世紀頃にタリム盆地からモンゴル高原にかけてに勢力を持った。
( 9 )はトルコ系の一派が作った国で、エフタルを滅ぼし、6世紀には大遊牧国家を建設して草原地帯とオアシス地帯をともに支配した。しかし、隋と唐のたて続けの攻撃にあって衰退、滅亡した。
( 10 )もトルコ系の一派が建国した国で、8世紀の中頃には草原地帯を支配してた。唐の時代に発生した安史の乱の際に、その鎮圧のため唐をたすけた。
パミール高原以西におこった( 11 )はトルコ系で、オアシス地域を支配下に置いた。
オアシスの民の活動
オアシス都市の誕生は、紀元前5000年ごろ、内陸アジアのオアシス地帯で西アジア文化の影響を受けて成立したとされる。紀元前10世紀頃には、城塞や潅漑網を完備した国家が形成された。
この地域は農地が狭く富の蓄積に限界があったことから、ここに住む民族は隊商による中継貿易を展開し、外へ活路を求めた。
シルクロードはオアシスの道とも呼ばれ、東西の文化圏を結ぶ内陸の最短経路であった。この中継には特にイラン系の( 12 )人が活躍し、サマルカンドを根拠地として隊商を組んで活動していた。このルートで東西の文物が交流した。
解答
1:スキタイ 2:匈奴 3:単于 4:冒頓単于 5:月氏 6:大月氏国 7:鮮卑 8:北魏 9:突蕨 10:ウイグル 11:キルギス 12:ソグド
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