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古代中国(カッコ抜き)
東アジアの風土と民族
東アジア地域は、東側には太平洋が広がり、西側にはチベット高原などの急峻な産地が連なり、北側には極寒のシベリアが広がっている。こうした地理的条件のために他の地域との交流は困難な地域であったから、東アジア独自の歴史的世界が形成された。一方で、それらの地理的条件にもかかわらず、草原の道、オアシスの道、海の道などの限られたルートを使って、古くから西方の世界との交流も試みられてきた。
東アジア地域では古くから中国の力が非常に強く、東アジアの政治、文化は中国を中心とした結合をなしていた。中国は非常に広大であるから、中国を考えるときには気候風土によって、華北、華中、華南に三分割する方法が一般的である。華北地方は、秦嶺山脈や淮河よりも北方の地方で、気候は乾燥しており畑作が行われている。それより南の地方が華中で、温暖湿潤な気候下での稲作が行われ、後に商品作物の栽培も盛んになるなど、農業やその関連産業の中心的地位を占めるようになる。華南はさらに南に位置し、やはり温暖湿潤な気候下で稲作などが行われる。
現在の中国では、漢民族が人口の大半を占める一方、トルコ系民族や、モンゴル系民族、ツングース系民族など多くの少数民族が入り交じって生活している。そのため、中国政府は比較的人口の多い少数民族に対しては自治区を設定して、民族毎にある程度自由な政治を行わせており、少数民族を優先する政策も行っているが、民族問題が表面化している自治区もある。
漢民族はは朝鮮半島や日本と同様に農耕民族であるが、中国の周辺に居住するモンゴル族やチベット族は遊牧民族であり、中国東北部には狩猟民族も生活していた。中国とこれらの周辺諸民族は共存関係を築いたり、敵対したりして、互いに大きな影響を与えていた。
黄河文明
沖積世に入ると、黄河や長江といった大河に沿って巨大な沖積平野が形成された。そうした大河の流域各地では農耕が開始され、定住農耕社会が形成された。紀元前5000年頃になると、華北地方では黄河を中心とした黄河文明と呼ばれる新石器時代が始まり、初期の( 1 )文化と後期の( 2 )文化が栄えた。
( 1 )文化は紀元前5000〜3000年頃にかけて存在した文化である。その名称は、スウェーデン人のアンダーソンが発見した新石器文化の遺跡が、河南省( 1 )村にあったことに由来する。( 1 )文化の遺跡からは、磨製石斧などに加えて赤地に黒色の文様を施した( 3 )陶が出土していることから、西方との文化的関係が推測される。このころの人々は黍や粟を栽培し、豚や牛を飼育して、竪穴や地上式の泥壁の住居をかまえて村落で生活を営んでいた。仰韶文化の分布地域は黄河中流域であった。
( 2 )文化は紀元前2000〜1500年頃にかけて存在した文化である。その名称は、この文化の遺跡が最初に発見されたのが、山東省( 2 )鎮であったことに由来する。龍山文化の遺跡からは黒色で研磨された薄手の( 4 )陶が出土し、( 5 )陶も発見されている。このころの人々は、牛や馬、羊を飼育し、土塁によって囲まれた大村落で生活し、獣骨による占いも行っていた。( 2 )文化の分布地域は黄河の下流を中心として、遼東半島から長江流域にかけての広い範囲に広がった。
殷
( 2 )文化の時代には、中国各地で都市国家が成立した。黄河下流域では農耕定住民らが氏族社会を形成し、大小の城壁に囲まれた( 6 )と呼ばれる都市国家が多数形成された。後に、( 6 )が連合した国家が成立した。
紀元前2000年紀中頃に成立した殷は現在確認されている中国最古の王朝で、( 6 )の連合の盟主として黄河地域を統一した国である。殷の都は( 7 )であった。( 8 )は1899年に河南省安陽県の小屯で発見され、宮殿遺跡や地下陵墓などが発掘された。ここには青銅製の武器や祭器、白陶などが埋められていた。また、亀甲や獣骨には、漢字の起源とされる( 9 )文字が刻まれている。
殷の時代には定住農耕が定着し、近隣の地域や遊牧民との交易が行われていた。また、金属器として青銅器を用い、白陶という新しい種の陶器も用いられた。一方、政治は祭政一致の神権政治で、王は軍事経済の統率者であるとともに最高の祭司者であり、国事は亀トによる占いで決めていた。氏族制度が王侯貴族の統率から徐々に先祖や自然の崇拝に変質たこともあり、王位継承等の相続は兄弟相続から親子相続へと変わっていった。
周
周はもともと陜西省の渭水盆地にあり殷の勢力下にあったが、武王は殷の紂王を牧野の戦いで放伐し、その勢力を伸ばした。周は( 10 )に都を置き、華北を中心に勢力を保っていた。( 10 )に都をおいていた頃の周を特に( 11 )と言い、紀元前770年に遷都するまで、強力な支配が続いた。
周の統治体制は( 12 )制と呼ばれており、血縁関係を媒介として支配体制が敷かれていた。( 12 )制のもとでは、周一族の本家の家長が周王として政治、軍事、祭司の頂点として君臨し、周王は一族や功臣、土着の首長などを世襲制の( 13 )として封土を与えた。これらの諸侯がさらに、卿、大夫、士、といった家臣に対して領土を分封し、献納や軍事の義務を負わせていた。ここで与えられた封土は公邑と呼ばれ、諸侯が分封した領地は采邑と呼ばれた。
しかし、世代交代が進むにつれて血縁をよりどころとする関係が希薄になってしまったため、家族内の身分秩序や人間関係を定めた( 14 )を導入してその関係の強化を図った。宗法は、血統を同じくする宗族ごとに作られた。
春秋戦国時代
紀元前770年、陜西省や甘粛省近辺に居住していた遊牧民族の犬戎が周に侵入し、鎬京が占領されたため、周は都を( 15 )に遷した。これを周の東遷という。これ以降周王の権威は衰え、混乱と闘争の時代に入った。
春秋時代には、周王は形式的存在にすぎなくなり、有力な諸侯が諸侯の同盟の盟主として覇者を称し、尊王攘夷を提唱して勢力を争った。代表的な覇者は特に( 16 )と呼ばれるが、5人の組み合わせについては、斉の桓公と晋の文公以外は選者によって様々であり、一定しない。
紀元前403年、晋が3つに分裂してからは、( 17 )時代が幕開けした。( 17 )時代になるとは周王室の権威は完全に失墜し、諸侯は実力主義と下克上の時代を生き残るために争った。戦国時代になると諸侯は公然と「王」と称して抗争を繰り広げ、自国領土の拡大と富国強兵に力を注いだ。最終的には、( 18 )と言われる「秦」「韓」「趙」「魏」「燕」「斉」「楚」の7国が生き残り、国家統一にむけての勢力争いが繰り広げられた。
( 18 )の中でもひときわ勢力を伸ばしたのが秦である。秦の孝公に仕えた( 19 )が変法を行い、統治制度として( 20 )制を採用したり、什五制を実施して農民間の相互扶助や監視を行い、犯罪に対して連座制の適用するなどの大胆な改革が成功し、国力が充実した。
春秋戦国時代の経済・文化
春秋戦国時代には、甲骨文字を発展させた字が使われるようになった。これが秦の時代になると皇帝の詔勅を記した「篆書」、家臣が使用した「隷書」等の書体として定められ、隋や唐の時代にはさらに進化して「楷書」が確立された。漢字は東アジアでの文化の形成や交流に多大な役割を果たした。
紀元前5世紀頃になると農業の生産性が飛躍的に向上した。これは、諸侯の富国強兵策とあいまって普及した( 21 )や( 22 )の普及によるもので、またたくまに全国に広がった。その結果、従来は村落単位で行われていた農業経営が小家族単位の経営になり、土地の私有化も進行するなどの過程で農民の階層分化が進んだ。こうして富裕化した農民の中には、豪族として後世にまで力を持ち続けたものもあった。この時期には、( 23 )貨(韓・趙・魏)、( 24 )貨(斉・燕)、蟻鼻銭(楚)、環銭(秦)などの青銅貨幣の流通がすすみ、商工業も発展した。
春秋戦国時代には都市国家の規模が拡大し、これまで境を接することがなかった都市国家どうしが境を接するようになり、国家は都市国家から領域国家へとその姿を変えていった。このように変化した社会情勢に政治の対応が必要になり、官僚制度や税法、成文法の整備などが行われた。
この時代にはまた、農業生産力の急進に伴って、人口が激増し、移住や征服によって中国が領域を拡大していく時代でもあった。春秋の半ばには長江流域まで、戦国時代には秦が四川地方まで領域を広げ、漢民族の居住地域は広がった。このような余情人口の増加にうまく適応したのが燕で、中国東北地方の南部や朝鮮半島に影響力を持つようになった。
古典思想
春秋戦国時代は、それまでの世の中とは考え方が大きく変わり、社会改革や新時代の価値観をに適応した思想が必要とされた。諸国の富国強兵政策などもあり、現実的で比較的自由な思想活動ができる時代であったといえる。こうしたことから、この時代は百家争鳴の時代と呼ばれるほど多くの思想派閥が現れた。
儒家は( 25 )を祖とする思想集団で、周の封建制を理想に掲げ、家族道徳を政治にまで広げることで天下は泰平となると説いた。この孔子の思想をより発展させたのが紀元前4世紀に現れた( 26 )で、人間は元来善であるとする性善説をとなえ、徳治主義を掲げた。一方、紀元前3世紀頃には同じ儒家に( 27 )が出て、人間は元来悪であるとする性悪説を主張し、礼を重視した礼治主義をとなえた。
このような儒家に対して( 28 )と呼ばれる無差別愛の立場から儒家を非難したのが墨家で、絶対平和主義(非攻)と相互扶助(交利)の思想を説いた。
儒家や墨家思想とは全く異なる思想集団として法家がある。法家は秦に仕えて変法を実施した( 19 )や、法家思想の大成者である( 29 )、秦の始皇帝に仕えて丞相として活躍した( 30 )などの人物を輩出している。法家の思想は人間を徳で治めることは元来不可能で、法を犯す者を厳罰に処すことで法の遵守を図るという思想であった。
道家は俗世間からの超越を説き、「無為自然」や「小国寡民」を唱えた( 31 )や「万物斉同」をとなえた( 32 )らが出た。
これらの思想集団の中で後に最も栄えたのは儒家である。周王朝の記録を編集した「書経」、周時代の歌謡を集めた「詩経」、占いに関する「易経」、礼儀に関する「礼記」、そして歴史書の「春秋」の5つはは( 33 )と言われ、儒教で最も重要とされた。
秦の統一
紀元前221年、秦王政は中国の統一に成功し、( 34 )を名乗った。秦の都は渭水北岸の( 35 )であり、中国初の統一王朝として君臨した。秦は中央集権的な専制政治を確立し、歴代王朝のモデルとなったほか、今日の中国の領域をほぼ確定するなど、以後の中国の形を決定づける王朝であった。
始皇帝は法家の思想を基本とし、( 30 )を丞相に任じて国内の思想統制を行った。そうした思想統制としては儒教の排斥、とりわけ( 36 )が有名である。始皇帝は強力な中央集権政策を推し進め、国内の行政体制として( 20 )制をしいた。これは、行政の長である丞相、軍事の長である太尉、監察の長である御史大夫を頂点とした、ピラミッド型の統治体制である。また、( 37 )を鋳造して全国流通させることで貨幣の統一を図り、度量衡も一本化するなど統一政策を推し進め、交通路の整備や車幅の統一までも行った。また、全ての公的な命令は文書でなされ、「篆書」や「隷書」といった書体も全国的に統一された。そのほかにも、地方都市の城壁を破壊したり、民間の武器の没収、全国の富豪の都への移住などを行った。
秦の対外的政策は、領土の拡張と国土統一の維持を基本としており、積極的な外征を行った。北方には蒙恬を派遣して冒頓単于率いる騎馬遊牧民族の匈奴を討伐し、南方では華南やベトナム(南越)に侵攻して3郡(南海・桂林・象)を設置した。
秦の滅亡
秦は急激な国内改革や外征に伴って多大な負担を国民に課したため、各国民層にその不満や疲弊が蓄積された。紀元前210年、始皇帝が死去すると秦の求心力は急速に弱まり、中国初の農民反乱である( 38 )がおきた。その後各地で反乱が相次ぎ、楚の( 39 )と沛の( 40 )が2大勢力として秦の打倒に向け挙兵した。紀元前206年、( 40 )が秦を滅ぼし、紀元前202年、垓下の戦いで( 40 )が( 39 )を破って漢王朝を建てた。
前漢
前漢は紀元前202年に( 40 )が高祖となって建てた王朝で、都は( 41 )に置かれていた。農民出身の劉邦は現実的な方法で漸進的に中央集権化政策を進め、郡県制と封建制を併用した( 42 )制という形態で国内統治を行った。対外的には、冒頓単于の下で勢力を拡大した匈奴と戦ったが、白登山の戦いで敗北したため、後に和親策をとるようになった。
このようにして徐々に統治を固めた漢王朝であったが、5代文帝、6代景帝の時代にとられた急速な中央集権策は諸侯の反発を受けて、紀元前154年、( 43 )がおこった。しかし、この乱は鎮圧され、中央集権体制が確立した。
( 44 )帝は紀元前141年〜紀元前87年までの前漢の全盛期を治めた皇帝である。彼の時代には中央集権体制が確立され、潅漑、治水、開墾など国力の充実策がとられた。一方、建国当初の功臣の子孫を排除して皇帝直属の官僚を育成するため、( 45 )という官吏登用制度を創設した。これは、地方の有徳者を地方の役人が推薦する制度で当初はよく機能したが、時代下ると当初の目的が失われ、地方有力者(豪族)の政界進出の道具とされた。また、( 46 )の献策により儒学を国教化して( 47 )を設置した。武帝は、積極的な対外政策を行ってオルドスに勢力を拡大し、西域への進出を進めて川西四郡(敦煌など)を設置した。また、( 48 )を大月氏国や烏孫へ派遣して匈奴の挟撃を企図した。この企ては失敗してするが、その時( 48 )がもたらした情報をもとに西域都護が設置され、東西交通路をおさえるなど西域政策に大きく寄与した。一方、東方では朝鮮半島を征服して( 49 )郡を設置し、支配を拡大した。また、南方ではベトナムなどを征服して交趾郡(現在のハノイ付近)や日南郡など4郡をを設置した。
このようにして領域を拡大していった漢は、やがて財政が逼迫し、それに伴う経済政策が行われた。財政再建のために重税を課し、桑弘羊の献策によって( 50 )・( 51 )、そしてのちに酒を専売とした。また、政府の貯蔵物資を物価高騰時に放出する( 52 )法・地域ごとに不足する物資を転売して価格の安定を図る( 53 )法などで物価政策を行うとともに、( 54 )を鋳造して物価の安定を図った。しかし、こうした対策にもかかわらず財政の悪化はその後も続いた。
武帝以降、こうした経済のひずみが拡大し、農民の困窮化も重なって財政基盤が大きく揺らいだ。また、地方では豪族が台頭し、宮廷内では( 55 )や( 56 )による党派争いがたえず、王朝は内外から崩壊していった。こうしたなかで漢王朝の外戚だった王莽が帝位を奪い、漢王朝は一時中断して新が建てられた。王莽は極端な儒教主義者であったため周礼の復活を企図し、復古主義的改革を押しすすめた。ところが、これが現実に適合しなかったために各国民層の反発を買い、( 57 )という農民反乱によって滅ぼされた。
後漢
紀元前25年、漢王室の一族であった劉秀が豪族勢力を結集して後漢を建てた。劉秀は即位して( 58 )となり、都は洛陽におかれた。行政機関は前漢を踏襲し、対外的には匈奴を討伐して積極的な西域経営を行った。西域の維持では西域都護の( 59 )が活躍し、西域に後漢の影響力を及ぼした。
しかし、紀元後1世紀頃からは宦官や外戚の横行が目立つようになり、幼帝が連続したこともあって宮廷内での抗争が激しくなった。166年には( 60 )が起こって宦官が官僚に対して弾圧を行い、儒学を奉ずる官僚と外戚・宦官の争いはその後も続いた。さらに、184年、河南省から山東省にかけて広がっていた宗教組織の太平道による( 61 )が発生し、同時期に四川省を中心として五斗米道の乱が発生するなど、反乱が相次いだ。また、豪族が各地で挙兵して独立政権化し、群雄割拠状態となって漢王朝は形骸化した。189年、董卓の乱がおこって董卓が洛陽に入城して政権を奪取し、さらに220年、献帝が曹丕に帝位を禅譲したことで漢王朝は滅亡した。
中国の官僚制度は、行政監察官の設置や文・武官の分離、官吏登用制度の設置など優れた点を持っていたが、職掌の未分化・未発達など、現在とは異なる点も多くある。また、皇帝を頂点とした独裁的体制のもとでは、皇帝の才能や帝室の力、そしてそれを補佐する人次第で善政と悪政が左右されるという欠点を持っている。皇帝が盤石であれば官僚組織は円滑に動き国家も安定するが、幼帝や無能な皇帝が位につくと外戚や宦官の政治への侵入を許し、政治が混乱したのである。
漢の社会
漢の時代になると、大土地所有がさらに進行し、小規模土地所有の自作農は田租(土地税)、算賦(人頭税)、多種類の役(強制労働)など重い税負にくりしみ、大土地所有者への隷属化や流民化が進んだ。
大土地所有者はこのような困窮化した没落農民の所有地を兼併し、さらに富裕化して地方を経済的に牛耳るようになった。さらに、( 45 )によって地方官、さらには中央政界に進出して官僚になるなど、大土地所有者は豪族となって、大土地所有者として多数の半奴隷農民を所有する一方、政治、経済、軍事の各分野で地域を支配した。
このような状況に中央政府も対処しようとして、均分相続での豪族弱体化を企図して前漢武帝が出した推恩の令や、哀帝が実施しようとした限田策があるが、不調に終わった。
漢の文化
漢の初期は、新しい価値観を作り上げていく途上であったため、法家の思想が用いられた。しかし、後に国の安定すると、( 46 )の献策によって儒学が官学となり、( 47 )が設置されて教義の統制と官僚の教育が行われた。後漢になると、儒教は古典の字句解釈を中心とした( 62 )学へ比重を移した。( 62 )学の基礎は馬融が築き、それを大成したのが鄭玄である。
民間の思想信仰の分野は、戦国末期の混乱を背景として民間や民衆の間には陰陽五行の思想が広まり、自然現象と人事との相関が解かれた。また、道家の思想と自然信仰などの民間信仰が融合し、太平道や五斗米道などの民間宗教結社が成立し、後の道教へとつながっていった。
歴史学の分野では、( 63 )の『史記』が三皇五帝時代から前漢武帝までを( 64 )体で記述して初の正史となった。『史記』は後の正史の模範とされ、正史は( 64 )体での記述がなされた。後漢になると( 65 )によって前漢一代の歴史書『漢書』が記された。ただ、漢書の編纂中に班固は亡くなってしまい、親族の班昭によって完成された。
そのほか、後漢の時代には蔡倫によって( 67 )が発明され、和帝に献上された。製紙法は世界各地に伝わっていき、751年のタラス河畔の戦いによってイスラム世界にも広がり、これが後に西洋に広がった。
解答
1:仰韶 2:竜山 3:彩 4:黒 5:灰 6:邑 7:商 8:殷墟 9:甲骨 10:鎬京 11:西周 12:封建 13:諸侯 14:宗法 15:洛邑 16:春秋の五覇 17:戦国 18:戦国の七雄 19:商鞅 20:郡県 21・22:鉄製農具/牛耕(順不同) 23:布 24:刀 25:孔子 26:孟子 27:荀子 28:兼愛 29:韓非 30:李斯 31:老子 32:荘子 33:五経 34:始皇帝 35:咸陽 36:焚書坑儒 37:半両銭 38:る陳勝・呉広の乱 39:項羽 40:劉邦 41:長安 42:郡国 43:呉楚七国の乱 44:武 45:郷挙里選 46:董仲舒 47:五経博士 48:張騫 49:楽浪 50・51:塩/鉄(順不同) 52:平準 53:均輸 54:五朱銭 55・56:外戚/宦官(順不同) 57:赤眉の乱 58:光武帝 59:班超 60:党錮の禁 61:黄巾の乱 62:訓詁 63:司馬遷 64:紀伝 65:班固 67:紙
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