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インド文明
インドの気候風土
インドは非常に広い地域を有するため、気候風土は場所により多種多様である。気候は熱帯気候から温帯気候に属し、そのほとんどはサバナ気候である。しかし、前述の通り国土は広く、砂漠気候の地域もある。
インド北部には広大な平野やインダス川、ガンジス川があり、古くから文明が発展して国家活動の中心地となってきた。北西部はアフガニスタンなどの中央アジアへの出口となるカイバル峠があり、多くの民族や軍隊の進入路となったほか、文化交流の通路ともなった。
インド中部以南には広大なデカン高原があり、地域的な諸王国の興亡が繰り返されて、北部とは違った独自の文化が発展していった。
インド亜大陸西方の海岸は、イラン、メソポタミア、エジプトなどとの海路を使っての交流が盛んで、また、東海岸も東南アジアや中国との交流の窓口となって文化交流が活発に行われていた。
インドの民族は先住民族としてドラヴィダ人がおり、彼らが古代インダス文明を創造したとされている。そして、後にインドヨーロッパ系のアーリヤ人が侵入し、ドラヴィダ人を征服してインド文明を形成していった。
インダス文明
インダス文明はインダス川流域で発展した文明である。代表的な遺跡はインダス川中流のパンジャブ地方にあるハラッパーや、下流のシンド地方にあるモヘンジョダロ遺跡である。
この文明の特色は青銅器を用い、農耕牧畜を営んで生活していたということである。これは、メソポタミア文明などの影響を受けた可能性を示している。またこの文明の遺跡からは、計画的に作られた整然とした都市が出ている。ここからは城塞や穀物倉庫、作業場や大浴場などが見つかっているが、オリエント文明で定番だった巨大な神殿や宮殿は見つかっていない。これらの建物には焼れんがが使用されており、配水設備も完備されている。また、印章などにインダス文字が使用されているのが確認されているが、解読せれていない。
しかし、紀元前1800年頃からこの文明は衰退し始め、都市が放棄され、地域的文化に退行していった。この原因は未詳である。そして、紀元前1500年頃には完全に滅亡しているが、その原因もよく分かっていない。
アーリヤ人の侵入
アーリヤ人はインドヨーロッパ語族の一派で、紀元前1500年頃から第一次の移動をはじめ、中央アジア方面からパンジャブ地方に侵入して半定住した。このころは農耕遊牧生活を行い、大家族を形成して生活していた。宗教は穏和で豊かな自然環境から自然現象を神聖視し、その中でも特に牛を神聖視した。
しかしアーリヤ人はインダス川流域から第二次の移動を行い、ガンジス川流域へも進出した。このころ鉄器を使用するようになり、農具としては生産性の飛躍的な向上に、武器としては先住民の征服と奴隷化に大きな力を持った。この後は部族間抗争と淘汰が進みんで都市が形成され、小国家が成立していった。
バラモン教
バラモン教はアーリヤ人が信仰し、、現在のヒンドゥー教のもととなった宗教である。バラモン教は、過去の遊牧生活を営んでいた頃の世界観から、インドへの侵入後の自然現象を神聖化して崇拝し、さらに先住民族との文化的な混合を経て生まれたものである。バラモン教は多神教で、体系的な教義がないことも特徴であると言える。
バラモン教の教典は、宗教賛歌と儀礼をまとめたヴェーダと呼ばれているものである。もっとも古い「リグ=ヴェーダ」は神々への賛歌が、「サーマ=ヴェーダ」には賛歌の旋律が、「アタルヴァ=ヴェーダ」には呪文が、「ヤジュル=ヴェーダ」には祭式の実務が、それぞれ記載されている。
これらのヴェーダは紀元前10世紀頃に成立したと見られている。このころは社会の中で宗教の重要性が高まり、祭祀が重要視されるようになった時代でもあった。その後、祭司者の社会的地位は上昇、指導階層化し、それに伴って宗教儀礼が複雑化し祭式万能主義がはびこる世の中になっていった。
カースト制はバラモン教の一部をなす制度で、当初は4つの階層からなっていた。最上位から順にバラモン(司祭者)、クシャトリヤ(貴族、武人)、バイシャ(商工業者、農民)、シュードラ(被征服民、奴隷)である。
このカーストは時代とともにジャーティー(出自)と結合し、より細かく、複雑になり、結婚や日常の生活に至るまでの厳しい規制により、世襲化、固定化が進んだ。これはインド社会の社会制度となり、近代憲法によってカーストによる差別が禁止された現在もなお生き続けている。
新宗教の成立
古代インドの社会は、紀元前6世紀頃には農業生産の発展や、都市の経済活動の活発化によって経済的に発展した。それと同時に政治的にも都市国家が発展し、小国家の形成期にさしかかった。当時のインドには16の国があったとされ、ガンジス川中流域のコーサラ国や、マガダ国などの勢力がきわめて強かった。このころになるとクシャトリヤ層やバイシャ層が成長し、バラモンの支配に対する反感や反発が大きくなっていった。これが新しい思想の端緒となった。
このころ生まれた新興宗教の一つがジャイナ教で、ヴァルダマーナ(尊称:マハーヴィーラ・ジナ)によって設立された。苦行と厳しい戒律による自己救済をとき、バイシャ層に強い支持を受けた。一方、同じくこのころに生まれた仏教はガウタマ=シッダールタが創設した宗教で、その哲学的な考え方から、教養のあるクシャトリヤ層に好まれた。
こうした状況に対して、バラモン教がとった対応はウパニシャッド哲学という考え方の導入であった。これは、「ヴェーダ」の奥義を追究することからバラモン教の世界観の哲学的位置づけを明確にし、宇宙の根源原理と解脱への方法をとくようになった。
文学の発展もこの時期にみられた。二大叙事詩と言われる「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」の原型がほぼ出来上がった。これらはきわめて長い叙事詩として有名である。これらは後数世紀を経て、現存する形になった。
古代統一国家の成立
紀元前6世紀頃になると都市国家の連合という形で小国家が誕生しはじめた。これが紀元前4世紀の後半になると統一へと動き出すようになる。特に、アレクサンドロス大王の西インド侵入による政治的混乱を背景に、マガダ国を中心としてインド統一の気運が盛り上がっていった。
実際にインドを統一したのはナンダ朝を打倒したチャンドラグプタが建てたマウリヤ朝で、彼は西北インド地方へ遠征してギリシア人勢力を排し、政治的混乱を静めた。
マウリヤ朝の最盛期はアショーカ王の時で、インドの統一を推進し、南インドの一部を除くほぼインド全土を統一した。彼は政治の制度の整備も強力におし進め、徴税制や官僚制を確立したほか、全国をいくつかにわけて統治する属州制の導入も行った。属州にはそれぞれに王族を太守として派遣していたようである。アショーカ王は佛教を保護し、積極的に布教した。これは仏教の反カースト的な教義が国内の諸勢力の統合に適していたたでであるという。彼は、摩崖や石柱に仏教の法(ダルマ)に基づいた詔勅を刻み、仏跡の巡礼やストゥーバの建立等を行った。また、アショーカ王が行った一連の仏教保護政策の中でも、特に第三回目の仏典結集は偉業とされている。このとき結集された仏典はパーリ語で書かれた上座部仏教のものであった。彼は仏教の布教についても積極的に進め、王子マヒンダによってセイロン島にも仏教が伝道され、東南アジアへの伝播の第一歩となった。
しかし、隆盛を極めたマウリヤ朝も、アショーカ王の死後は急速に分裂し、勢力を弱めていった。
クシャーナ朝
クシャーナ朝は1世紀頃に大月氏国から独立したイラン系の王朝である。この国の最盛期の時の王はカニシカ王といい、中央アジアからガンジス川中流域にかけてを統治した。この国でも佛教が保護、奨励され、第4回目の仏典結集が行われた。このときに結集されたのは大乗仏教に関するものが主で、それらはサンスクリット語によって表記されていた。この王朝でも寺院や仏塔の建立が盛んに行われ、特にその仏像はガンダーラ美術として世界的に有名である。しかし、この王朝はシャープール1世率いるササン朝ペルシア帝国によって3世紀頃に滅ぼされてしまった。
一方、クシャーナ朝がインドを制していた頃、南インドでは、アーリヤ人の文化が伝播し、その影響を受けた国がいくつもできていた。南インドの海岸線沿いは季節風貿易で栄え、西はローマ帝国から東は東南アジアまでの広範囲と交易をしていたようである。また、デカン高原の地方では、サータヴァーハナ(アーンドラ)朝と呼ばれるドラヴィダ系の王朝ができ、ここでは依然としてバラモン教が盛んだったようである。
仏教の発展
初期の仏教教団は出家信者中心の教団であったが、釈迦の死後、その教えについて解釈論争が繰り広げられ、諸部派が対立した。このような中で、仏教にも革新の気運が高まり、在家信者を含むより広範囲に対して救済が行われるという考えを持つ大乗仏教が誕生した。これは従来の上座部(小乗)仏教とは一線を画すものであった。大乗仏教の理論付けを行ったのがナーガールジュナ(龍樹)で、その著者として中論がある。
こうしてできあがってきた大乗仏教は主に北のルートから東アジアへと広まり、北伝仏教として現在に至っている。一方、上座部仏教はスリランカや東南アジアへと広まり、南伝仏教として現在も広く信仰されている。
このように広まっていった仏教の影響を受けて、ガンダーラ地方ではギリシア風仏教美術が生まれた。元来仏教は仏像を作らなかったが、ここでのギリシア文化との融合で仏像が作られるようになった。そのため、ガンダーラ美術にはギリシア彫刻の影響が色濃く出ている。こうした文化は中央アジアを経由して中国、そして日本にまで伝わってきている。
ヒンドゥー国家
紀元後320年頃にはチャンドラグプタ1世によってグプタ朝が建国された。この国はマガダ地方で勢力を確立し、マウリヤ朝の勢力復活を企図した。その首都はパータリプトラであった。グプタ朝の最盛期はチャンドラグプタ2世の時で、北インドのほぼ全域を押さえ、民族主義的な国家運営をしていたらしい。支配体制として封建的な国家体制を敷き、文化の奨励や佛教の保護を行い、インドの古典文化を完成させた。しかし、グプタ朝も中央アジアから侵攻してきたエフタルによって次第に勢力が衰退していき、6世紀の半ばには滅亡してしまった。
グプタ朝の滅亡からしばらくたって、紀元後606年にはヴァルダナ朝が建国された。この国の首都はカナウジ、建国者はハルシヤ=ヴァルダナで、エフタルの侵入によって混乱していた北インドを統一し、唐と交流するなど積極的な外交を展開した。文芸や、学術、ヒンドゥー教や仏教の保護を行うなど、優れた政治を行ったが、王の死後は再び分裂、混乱状態に陥ってしまった。
この後、インドにはイスラム勢力が侵入し、長い分裂と闘争の時代に突入してしまう。
古典文化
この2つの王朝の時代に、ほぼ、インドの古典文化が固まった。インド古来の宗教であるバラモン教は、祭司万能主義が時代遅れになったことや、ウパニシャッド哲学、仏教など、思想的な影響から、偶像崇拝という形で、新しい神々に帰依するようになった。これがヒンドゥー教の始まりである。この時考えられた神は、愛情深い慈悲と献身を司る神「ヴィシュヌ」、破壊や苦行そして舞踏を司る「シヴァ」の2つであった。この、新しい宗教は広く民衆に浸透し、最終的には各ヴァルナの生活義務や戒律を細かく規定した「マヌ法典」ができた。これと時を同じくして、二大叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」が完成し、民衆にインド固有のヴェーダ的世界や心情を示すようになった。このようにして成立したヒンドゥー教だが、特定の教義や聖典はなく、バラモン教と民間信仰が融合してできた宗教で日常生活に密着していた。また、その説く内容である「自己のカーストの職業に忠実なれ」という言葉からも極めて生活的な宗教であったといえよう。
一方、仏教もナーランダ僧院などで盛んに教義の研究が行われており、中国人僧侶のインド訪問が行われた。5世紀のはじめには法顕が渡印し、「仏国記」を記している。また、少し後になるが、7世紀前半には玄奘が陸路でインド入りし、「大唐西域記」をまた、7世紀後半には義浄が海路でインドに渡り、「南海寄帰内法伝」を記すなど、この時期のインドは中国との交流がかなりあったといえる。しかし、民衆の宗教という点では、ヒンドゥー教にその座を奪われ、急速に衰退していった。このころになると、仏教美術が盛んになり、アジャンタやエローラなどといった石窟寺院が造られた。当時の仏教美術の様式はグプタ様式と呼ばれ、仏教美術の頂点とされている。この美術工芸品は純インド様式であるという点でガンダーラ美術とは異なる。グプタ様式の仏教美術は、中央アジアや東アジアへもその影響が及んだ。
また、サンスクリット文学という世俗的な文学が生まれ、カリーダーサが「シャクンタラー」に代表される戯曲を書いたりもした。そのほかにも、代数学や幾何学が誕生し、「0」の概念や数字が作られるなど、学術的に大きな進歩があったし、数学に限らず、薬学、天文学、医学など、このころは多くの分野で大きく分が前進した時代であった。
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