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キリスト教
キリスト教の成立
キリスト教の下地となったユダヤ教はモーゼの出エジプトから始まっていたが、バビロンの捕囚にあって一時は衰退していた。紀元前538年、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人たちは、イェルサレムに神殿を再建し、教義を整備し、儀式や祭祀の規定などを作り、教えの復興を行った。その後時代が下るとパリサイ派と呼ばれる律法学者や、サドカイ派と呼ばれる支配者層や神官たちが律法の遵守や保守を強制し、ユダヤ教は本来の姿からしだいに変わっていた。
そのような中で、イエスは神と人間の新しい契約関係を説き、神は全人類に対して絶対的な愛「アガペー」を注ぎ、人は信仰という神への愛によってこれに応え、人間相互は隣人愛という考え方で愛し合うべきだと説いた。これは、人の平等性を説く先進的な考えではあったが、ユダヤ保守派の反発を招いた。その結果彼らはローマと結び、イエスは十字架刑にかけられた。
イエスの死と復活によって、イエスが人間の持つ罪を全て背負ってこの世を去ったとする贖罪思想や、イエスを神の子とし、イエスこそは救世主とする考え方が生まれた。また、ペテロやパウロなどの使徒たちによる布教と伝道によって小アジア、ギリシア、ローマ等に信者の団体が成立した。
2世紀の末になると、イエスの言行を記した「新約聖書」が作られた。これはコイネでかかれ、「福音書」「使徒行伝」などで構成されていた。
キリスト教の発展
ここで、ローマ帝国によるキリスト教迫害の歴史をまとめてみる。まず、キリスト教ではないが、同じくイェルサレムに本拠を置いたユダヤ教への迫害である。ユダヤの数度にわたるローマへの反乱によって、イェルサレムへのユダヤ人の居住が禁止された。これによりユダヤ人は各地に移転し、ローマのいたる所で居住するようになった。これがディアスポラ(離散)のはじめで、以後、第二次世界大戦後にイスラエルが再建されるまで続いた民族の苦難の始点となった。一方キリスト教は、皇帝崇拝を拒否したことや、その特異な信仰の形式から無神論者と誤解されるなど、様々な要因が重なり、迫害されていた。64年にはネロ帝のよるキリスト教の迫害が行われ、ペテロやパウロといった使徒が殉教した。その後、303年に皇帝崇拝拒否を理由としたディオクレティアヌス帝による迫害が行われた。ディオクレティアヌスの迫害は最大にして最後となった。
ディオクレティアヌス帝の後継となったコンスタンティヌス帝は、ミラノ勅令でキリスト教を公認し、324年にはコンスタンティヌス帝自らがキリスト教信者であったことを告白した。その後の布教活動は概して円滑に進み、ギリシアやローマの哲学を吸収し、教父たちによる教義の体系化がなされ、その教義の持つ人類愛や普遍的愛の思想などは世界市民思想などと合致し、急速に普及していった。その後の皇帝たちははキリスト教容認路線をおおむね引継、テオドシウス帝がこれを国教化し、392年には異教の禁止と罰則規定までが盛り込まれた。しかし一度だけ、ユリアヌス帝の時にキリスト教は弾圧を受けた。これは古典文化と異教の復活を企図したものとして評判が芳しくなく、彼は「背信者」とまで呼ばれた。
キリスト教が発展し、教義の体系化が進むに従って、教義の解釈を巡る論争が繰り広げられるようになった。まず、325年にコンスタンティヌス帝の召集によって開かれたニケーア公会議では、神とイエスの関係を三位一体とするアタナシウス派が正統とされ、キリストの人としての性質を主張したアリウス派は異端とされた。そのため、アリウス派の人々はローマを追われ、北方のゲルマン人たちに布教するようになった。
また、431年のエフェソス公会議でも、やはりアタナシウス派が正統とされ、ネストリウス派が異端とされた。そのためネストリウス派の人々は東方へと布教し、イランでの布教活動を行った。しかし、ここは後にイスラム教によって征服され、イスラムに改宗させられた。そのため、キリスト教はここからさらに東へと伝播し、ついには「景教」という形で中国にまで伝わっている。
こうしたキリスト教に発展や、体系化に大きく寄与したのは教父の存在である。教父は、古代キリスト教会の指導者であり、その著作によって教義を確立していった功労者である。その中でも最大の教父とされるのは、アウグスティヌスで、「告白」や「神の国」などの著作を残している。
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