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帝政ローマ
帝政ローマ
オクタヴィアヌスは紀元前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えられたが、自らこれを辞退してプリンケプス(元首)と名乗った。これ以後、元老院など共和政的な機関も存続しつつ、事実上の帝政が行われるようになった。この政治体制をを、プリンキパートゥス(元首政)と言う。
この時期は内政の充実が図られ、ローマの平和(Pax Romana)と呼ばれる安定期が訪れた。この200年間は、ライン川のゲルマン国境で起こったトイトブルクの戦いをを除いては大きな混乱や戦争はなく、ネロのような暴君は例外としても善政が敷かれ、ローマは全盛期であった。
こうした安定期の中でも、特に五賢帝時代にはきわめてよい政治が行われた。五賢帝は、順にネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス=ピウス、マルクス=アウレリウス=アントニヌスの5人である。トラヤヌス帝は帝国の最大領土に達したときの皇帝として、ハドリアヌス帝は辺境各地に城壁を築いた皇帝として、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝は哲人皇帝として、それぞれ有名である。また、このころには各地にローマ風の都市が建設され、これが後のヨーロッパ諸都市の起源となったものは多い。例えば、後のロンドンとなるロンディニウムや、後のパリとなるルテティアはその代表的なものである。また、このころは地中海沿岸の各地に限らずアラビア、インド、中国とも関係があったものとみられ、紀元後1世紀には、アラビア海やインド洋を紹介した「エリュトゥラー海案内記」という書物も書かれてている。また、ローマ帝国の中国との関係を立証するものとして、後漢の歴史に「大秦国王安敦の使者が来航した」との記録が残っている。大秦国王安敦とは、ローマ皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌスのことである。
ローマ帝国の衰退
193年から235年までの間は、ローマ以外の地方出身者が皇帝位についていた。さらに、紀元後235年から284年までの50年の間は29人もの皇帝が廃立し、抗争の激化から異常な事態となった。この時期は「軍人皇帝時代」と呼ばれ、地方で私兵化した軍隊を握っていた有力者(軍人)たちが次々と帝位についたのである。このような皇帝は、そのほとんどが強引な方法で帝位についており、それがために暗殺など変死をしている。この時代に起こった大きな変化として、212年にカラカラ(アントニヌス)帝がアントニヌス勅令を出して、ローマ帝国領内の全自由民に対してローマ市民権を付与したことが挙げられる。ローマではローマ市民権はそのまま参政権と結びつくため、全自由民へのローマ市民権付与はローマの政治の間口を広げるということを意味していた。
このような混乱が続く中、帝国は確実に衰退を続けていた。辺境からは異民族が侵入し、ローマはその防備のために都市に重税をかけたのだが、そのために都市の経済が衰退するという悪循環を繰り返した。こうして都市が衰退の度を深めていくと、治安の悪化や奴隷の入手困難などの理由から従来式の大農場経営が困難になった。このため、大規模なラティフンディアは徐々に自給自足を基本とするコロナートゥス(小作制)へと変化して、状況の変化に対応した。
古代ローマの終焉
衰退を続けるローマ帝国に繁栄を取り戻そうとしたのがディオクレティアヌス帝である。彼は帝国の再統合に尽力し、軍備の増強や国境防衛を強化した。さらに、四分統治制を導入し、税制の改革を行うなどの積極的な活動を行った。それと同時に皇帝の権力を絶対化し、専制君主制を開始した。これによって元首制(プリンキパートゥス)が専制君主制(ドミナートゥス)へと変わり、ローマの政治は当初の姿からは大きく変わってしまうこととなった。一方、専制君主制下では皇帝崇拝を市民に強要したため、キリスト教徒はこれに反発し、弾圧を招いた。なお、この際のキリスト教弾圧がローマ帝国での最後の弾圧となる。
ディオクレティアヌス帝の次に即位したコンスタンティヌス帝は先帝の方針を受け継ぎつつ、土地緊縛令をだして全ての身分と職業を固定化し、世襲化した。これによって市民の自由が喪失され、ますますローマの姿は当初の物とは異なってしまった。また、帝国内で大きな勢力を持つようになったキリスト教を国家の統合のために利用する方針に転じ、313年にミラノ勅令を出してキリスト教を公認、325年にニケーアの公会議を主催するなどして教義問題に介入し、皇帝の神聖化を図った。また、首都をコンスタンティノープルにうつし、帝国の中心が東方へと移った。
しかし、これらの努力にもかかわらず帝国の衰退は続き、395年にはテオドシウス帝の遺言により、帝国は2分割されてしまう。東ローマ帝国は1000年以上に渡って存続するが、西ローマ帝国は476年にオドアケルによって滅亡し、古代ローマの歴史は幕を閉じてしった。
ローマの文化
ローマ文化は、学術的な面ではギリシアの模倣的な要素が強い。そういった事もあって、多くのギリシア人が活躍した文化であるともいえる。一方、実用的な文化においては、広大な領土を支配する必要性から、法律、土木建設などきわめて優れた水準を誇っていた。
ローマの学問
文学面では、ローマ最大の文筆家とうたわれ、カエサルの独裁的な政治に反対した共和派の政治家であるキケロ(シセロ)が、「友情論」や「国家論」といった著作を残している。また、ラテン文学の黄金時代であったオクタヴィアヌスの時代には、ローマの建国を描いた「アエネイス」などの著作があるヴェルギリウスや、「メタモルフォーゼス(転身譜)」や「愛の技」等の著作があるオヴィディウスなどの作家が現れた。
歴史学では、マケドニア戦争でローマの捕虜となって「ローマ史」を書いたギリシア人ポリビオスや、オクタヴィアヌスの側近で「ローマ建国史」の著作があるリヴィウス、「年代記」や「ゲルマニア」等の著書のあるタキトゥス、ギリシア人で著作「英雄伝」があるプルタルコスらがいる。
ローマ時代の哲学はストア派が主流であった。これは、禁欲を是とするストア派の思想が実践倫理となり、上流社会に流行したためである。皇帝ネロの師として有名なセネカ(後にネロにより処刑)は、哲学において「幸福論」という著作を残している。このほかにも小アジア出身の解放奴隷であるエピクテトゥス等もいるが、やはり有名なのは、五賢帝最後の皇帝で哲人皇帝として有名な、マルクス=アウレリウス=アントニヌスである。また、少々ではあったがエピクロス派の哲学者もおり、「物質の本性について」の著作が残るルクレティウスがいる。
そのほかの自然科学等の分野では、「地理史」を書いた小アジアのストラボンや、「博物誌」という百科事典を書き、ポンペイの火山噴火で殉職したプリニウス、「天動説」を説いて後のキリスト教的宇宙観に大きな影響を与えたプトレマイオスらが活躍した。。
実用的な文化
建築の分野では、コロセウムと呼ばれる円形闘技場が各地に建設されたが、特にローマの物が有名である。また、「パンテオン(万神殿)」と呼ばれる神殿が建てられ、軍用街道(アッピア街道など)が多数作られた。また、水道橋の技術の高さは際だっており、地中海沿岸の各地に遺跡が残っている。特に南仏のガール県のものが有名である。
建築以外にも、ユリウス暦(太陽暦)が導入されて当時としては正確な暦が用いられた。また、ローマの言葉であるラテン語は中世に教会で使用され、中世の学術用語となった。ローマ字は現代のヨーロッパ諸国の文字の起源となるなど後の文化に大きな影響を与えた。
ローマ法
ローマ法はローマ最大の文化遺産といえる。ローマでも、はじめのうちは民会の決定や裁判所の判例などが慣習法として明文化されずに執行されていたが、紀元前451年に十二表法が制定されたことにより法制度は慣習法から成文法へと転換された。
ローマの法律は市民法で、ローマ市民権を持つ者に対して適用されるものだった。ローマ市民権は、ローマの政治運営の参政権であり、ローマの支配地域が拡大するにつれて異民族へも市民権が適用されるようになった。紀元前287年にはホルテンシウス法が制定され、平民に参政権が拡大された。その後、同盟市戦争が起こり、半島内の全自由民に市民権が拡大された。
しかし、紀元後212年にアントニヌス勅令が出ると、帝国領内全ての自由民が市民権を持つようになった。こうなると、もはやローマ法は市民法ではなく、万民法としての性格を強く持つようになってきた。しかし、万民法として全領民に対して法を施行するためには法律施行の根拠が必要であったため、その根拠として自然法思想やコスモポリタニズムが利用されるようになった。これは、「人は皆同じ世界に住んでいるのだから、同じ法の支配を受けてしかるべき」という思想である。
こうしてできあがってきたローマ法をまとめたのが、6世紀の前半、東ローマ皇帝のユスティニアヌス帝の勅令によってトリボリアヌスが編纂した「ローマ法大全」である。
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