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共和政ローマ
共和政ローマ
ローマは、紀元前12世紀頃にインドヨーロッパ語族のイタリア人が鉄器を持って南下してきたことに起源を発するという。イタリア人の中でも特にラテン人という部派がティベル川下流に定住し、これが後のローマの礎となった。イタリア半島には半島の中部にエトルリア人が、半島の南部にはギリシア人が先住しており、これらの他民族は後のローマ拡大での闘争の対象となった。
紀元前7から6世紀には、ラテン人によって小規模都市国家が建設され、ローマでは王政がしかれていた。当時のローマはエトルリア人に支配されていたが、後の紀元前509年にエトルリア人の王を追放し、共和政を樹立した。なお、この翌年の紀元前508年にはギリシアでクレイステネスの政治改革が行われている。
共和政を樹立したとはいっても、古代ギリシアと同じようにはじめは大土地所有者であるパトリキ(貴族)が参政権を独占していた。任期1年のコンスル(執政官or統領)が2名、非常時にコンスルの中から選出する任期半年のディクタトル(独裁官)、そして優れたリーダーシップを発揮した貴族によって構成される定員300人の元老院など、いずれも貴族の特権であった。
プレブス(平民)は、中小の農民や少数の商工業者等からなっており、参政権はなかった。しかし、ローマがイタリア半島へと勢力を拡大するにあたって、重装歩兵としての軍事的役割が拡大し、政治参加の要求や身分的不平等の撤廃を主張するようになった。この運動は約200年間にわたって続き、身分闘争と呼ばれた。この間、貴族の段階的譲歩によって平民の権利が拡大していった。
紀元前494年には、平民たちが自分たちの権利の向上を貴族が認めない限り、兵役義務を拒否すると宣言した聖山事件が起こった。これに対して貴族側が譲歩して、護民官(トリビナス)を設置し、元老院の決定に対して拒否権を発動できるようになった。また、平民会が設置され、平民だけの独自の民会を持った。紀元前450年頃には、十二表法が制定され、慣習法の成文化が行われた。これによって貴族による法の独占が崩れることとなった。また、これ自身がローマ最古の成文法であった。
紀元前367年にはリキニウス=セクスティウス法が制定され、コンスルの2人のうちの1人を平民から選ぶことや、大土地占有の制限(公有地占有面積を500ユゲラに制限)などが盛り込まれた。
紀元前287年にはホルテンシウス法が制定され、平民会の議決が元老院の承認なしに国の法律となる立法権が付与され、貴族・平民間の政治的平等が達成された。これをもって身分闘争が終結したとされる。しかし、この後も貴族や上層平民からなる元老院の力は残存した。
紀元前3世紀半までには、身分闘争と並行して半島の制圧が達成された。紀元前272年には、イタリア半島のギリシア人勢力最後の拠点であるタレントゥムが陥落し、南部ギリシア人勢力が打倒された。これにより、ローマは半島統一を成し遂げたのである。
半島支配の過程で、ローマはアッピア街道などの軍道を拠点に植民市を建設していった。また、本国とその他の都市について、分割統治(各都市と異なった内容の条約を締結し、互いの都市が結びつかないようにする統治方法)による巧妙な支配によって巧みに各都市の反乱を防いでいた。分割統治の都合により半島内には、要地に屯田兵を入植させた植民市(ローマと対等の関係)、ローマと戦争なしに和睦した都市である自治市(自治を認められ納税も免除)、ローマとの戦いに敗れて服属させられた都市である同盟市(軍役の義務はあるが、市民権がない)の3形態の都市が存在した。しかし後に、同盟市はその待遇の改善を求めて紀元前91年から同88年にかけて同盟市戦争を起こし、結果的に自治市と同等の権限を付与された。
ローマの海外征服
ローマはフェニキア人の植民市であるカルタゴとのポエニ戦争によって海外進出の足がかりを築いた。ポエニ戦争は、シチリア島に住むギリシア人がローマに対し、シチリア島に侵入たカルタゴ勢力を撃破するよう要請したのをきっかけに、カルタゴとの西地中海地域の覇権をめぐりって合計3回、足かけ100年以上にわたって続いた戦争である。
第1次のポエニ戦争は紀元前264年から紀元前241年にかけて、主にシチリア島で行われた。この戦いでローマは勝利し、シチリア島などの初めての属領(半島外の領土)を獲得した。これをきっかけにローマは次々と海外征服を行っていく。
第2次のポエニ戦争は紀元前218年から201年までで、カルタゴのハンニバルがイベリア半島経由でイタリア半島の侵入し、紀元前216年のカンネーの戦いではローマ軍は壊滅的打撃を受けた。しかし、ハンニバルは、本国からの帰還命令によりカルタゴへ帰国、ローマは間一髪のところで滅亡の危機をしのいだ。そして紀元前202年、ローマは大スキピオ軍がカルタゴの上陸し、ザマの戦いで勝利を収めた。この戦いでローマは勝利し、ヒスパニア(イベリア半島)を獲得した。
第3次のポエニ戦争では、大カトーや小スキピオなどのローマ精鋭軍がカルタゴを強襲し、カルタゴを完全に滅亡させた。これによって、ローマは西地中海世界を支配下におさめた。
こうして、ローマは新たなる海外進出のきっかけをつかみ、その後領土は急速に拡大していった。ポエニ戦争以降は東地中海への進出が進み、紀元前168年のギリシアを征服、紀元前146年のマケドニアの属州化、紀元前64年のシリアの属州化など次々と属州を拡大していった。そして、紀元前31年のアクティウムの海戦によって、翌紀元前30年にエジプトが滅亡し、地中海の制覇を完了したのである。
ローマ社会の変質
海外征服の進展に伴う経済発展によって、ローマの社会では次第に貧富の差が拡大していった。従来の貴族は、属州の統治に関与して得た莫大な利益でいっそう富裕化し、ノビレス(新貴族)と呼ばれた。また、平民の一部にも徴税や土木事業の請負人として属州の総督に付き従ったものがおり、彼らはエクイテス(騎士)として大きな力を持つようになった。これらの富裕化した人々は広大な土地を所有し、奴隷を労働力としたラティフンディアを経営した。
その一方で、ローマの軍事や政治の担い手である中小の農民は、長期間の従軍や有力者の土地の買い占め、属州からの安価な穀物の大量流入などにより没落し、離農、遊民化した。これらの人々はパンと見せ物を求めて都市へ流入し、結果として重装歩兵部隊の解体へとつながった。ただ、これらの貧民もローマ市民権や参政権を持っていたから、富裕層はこれらの貧民に施しを行って手なずけを図り、これ自体による社会不安はあまり表面化したかった。
内乱の1世紀
こうした状況に対して、紀元前2世紀の末には、グラックス兄弟によって改革が試みられた。グラックス兄弟とは、当時の護民官であったティベリウスとガイウスである。彼らは、ローマの中堅階級である中小農民の生活再建を目標に掲げて大土地占有の制限をはかった。しかし、大土地所有者であった上流階級の人々からの強い反発にあって、二人とも暗殺されて、改革は失敗に終わった。
グラックス兄弟の改革が失敗した後、紀元前107年にマリウスの兵制改革が行われ、「市民皆兵・自装自弁」制から、「募兵・武器供与」制に変えられた。ただし、ここで募兵や武器供与を行ったのは国ではなく、各地の有力者たちであった。このため、こうして編成された軍隊は私兵的なものとなり、後に有力者間で繰り広げられる抗争の戦力となった。
ローマが危機に直面していた紀元前1世紀初めには、有力者が危機を克服する方法を巡って抗争を繰り広げた。スラ将軍を中心とする名門で保守的な考え方をする閥族派(オプティマテス)と、マリウス将軍率いる新興階層の民衆派(ポプラテス)が武力での抗争や、平民会での政争などを通じ、権力を巡って激しく対立したのである。
この1世紀の間には、各地で反乱が起こった。紀元前136年のシチリア島奴隷の反乱に始まり、紀元前111年のユグルタ戦争、紀元前91年から3年間に及ぶ同盟市戦争、小アジアのポントゥスで起こったミトリダテス戦争、紀元前73年からのスパルタクスの乱、そして、紀元前67年頃には東地中海での海賊の活動と、まさしく動乱の1世紀であった。
この内乱の1世紀も終わりごろになると有力者が絞られてきて、寡頭政治が行われるようになった。そして、紀元前60年から53年にわたって第1回三頭政治が行われた。第1回三頭政治の構成員は、東方を征服しきわめて大きな実力を持っていたポンペイウス、新鋭の若手でガリアを征服し「ガリア戦記」を記したことで有名なカエサル、大富豪であったクラッススの3人であった。
しかし、後にクラッススが戦死して三頭政治のバランスが崩れてると、カエサルの独裁体制になり、紀元前46年から44年の期間、貧民の救済や属州政治の改革、太陽暦(ユリウス暦)の採用などの政策を進めた。しかし、こうした独裁的な政治には共和主義者の強い反発がついてまわり、ついにブルータスによって暗殺されてしまうことになる。
カエサルが殺害された後、第2回三頭政治が行われた。これはカエサルの婿養子オクタヴィアヌス、カエサルの部下で東方に勢力を持つアントニウス、同じくカエサルの部下のレピドゥスの3人によるものである。しかし、レピドゥスが早々に政界を引退し、再び三頭政治のバランスが崩れてしまう。そこで、オクタヴィアヌスとアントニウスが抗争を繰り広げ、エジプトと連合したアントニウスと、エジプトを武力併合しようとしたオクタヴィアヌスが紀元前31年アクティウムの海戦で激突した。その結果、オクタヴィアヌス率いるローマ軍が勝利し、翌紀元前30年にはプトレマイオス朝エジプトが滅亡、ローマは地中海世界の覇権を完全に握った。それと同時に、この混乱の1世紀の最終的な勝者はオクタヴィアヌスに確定し、内乱にも終止符が打たれた。
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