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魏晋南北朝時代


魏晋南北朝時代

 後漢末期、官僚や宦官の政争の末に群雄が割拠してその勢力を争った。その結果、曹操が華北を、劉備が四川を、孫権が江南を占め、208年の赤壁の戦いで三国鼎立が確立した。曹操を継いだ曹丕は、220年に帝位を禅譲されて文帝として即位し、魏が成立した。それに対して劉備は蜀を、孫権は呉を建てて、三国が争った。圧倒的な人口と生産力を持つ華北を支配していた魏は蜀を滅ぼすが、司馬炎がクーデターを起こして国を乗っ取り、晋を建てた。

 魏は、国内統治体制を整備するために様々な試みを行い、官吏の登用に際して郷挙里選の弊害の反省から、中正官という役人に地方の人物を格付けのうえで推薦させる九品中正法に改めた。また、財政基盤の強化と周辺防備を固めるために屯田制を導入した。

 晋は、司馬炎がクーデターをおこし、武帝として即位して建てた国である。晋は呉を滅ぼして中国の統一に成功した。また、大土地所有を制限する占田法や、農民に官田を割り当てる課田法などの制度を実施しして、豪族の大土地所有の制限や税制改革を行ったという。ただし、詳細は不明である。

 武帝の死後、帝位継承をめぐって八王の乱が発生し、政権争いの混乱が異民族の侵入を招いた。316年、山西で挙兵した匈奴に、洛陽と長安が攻略される永嘉の乱が起こった。晋の皇族や豪族は江南へ逃亡し、司馬睿が建康を都として東晋を建てた。

 東晋の時代、華北の農民や豪族が江南へ移住したことにより、江南の地域の開発が進み、江南は華北に対抗しうる生産力を持つようになった。東晋は土地政策として、華北からの移民の戸籍整理を定めた土断法を施行し、後の南朝にもこれは引き継がれた。

 東晋の滅亡後、江南では宋、斉、梁、陳の4王朝が次々と交替した。これらの王朝を南朝という。宋は劉裕が建てた国である。宋には、倭の五王などが頻繁に使節を送ってきたという。斉は簫道成が建国したが長続きはせず、その後には簫衍(武帝)が梁を建国した。梁も長続きはしなかった。簫衍の息子が昭明太子で、彼は『文選』を編集したことで有名である。梁の後、陳覇先によって陳が建国された。539年、陳が隋に滅ぼされて再び中国全土が統一される。呉、東晋と南朝の時代を総称し、六朝時代という。

 東晋滅亡後、華北には五胡と呼ばれる異民族が次々と侵入し、侵入異民族により建てられた諸王朝が興亡しする五胡十六国時代に入った。4世紀頃、前秦が華北で勢力を増すが、江南へ侵攻した際に東晋との戦いに敗れ、統一の期を逃したまま後に滅亡した。439年、北魏によって華北が統一された。北魏以後の華北の王朝を北朝という。

 北魏は鮮卑族の拓跋珪によって建てられた国で、平城を都としており、大武帝時代に華北を統一した。孝文帝の時代に入ると急激な漢化政策が行われ、都を洛陽に遷し、胡服、胡語は禁止された。485年、孝文帝は均田制と三長制を実施した。534年、北魏は東西に分裂し、宇文泰が建てた西魏は府兵制を導入して軍事力の強化をはかった。


魏晋南北朝時代の社会

 魏晋南北朝時代、多くの農民や豪族が華北を離れ、当時はまだ辺境未開の地であった江南へと逃れた。これによって江南や四川地方の開発が進んで人口が急増し、耕地も大幅に拡大して江南の生産力は飛躍的に上昇した。

 三国時代以後、中小農民が没落して豪族への隷属化や私兵化が進み、なかには流民化する者もいた。そのため、従来財政の主たる担い手であり、徴兵の対象であった中小農民が没落によって減少してしまったため、政府は財政的、軍事的に破綻を来していた。こうした事態を打開するべく、魏晋南北朝時代の諸王朝は土地政策に力を入れた。

 魏は、耕作者を集団で入植させて耕作させ、穀物生産の増加とともに兵力増強をはかる屯田制を導入して、財源の確保につとめた。西晋は、大土地所有制限策として占田法を、農民の確保策として課田法を実施したが、実施期間は短く、戦乱によって記録が失われている部分が多いため、実際にどのような政策であったのかは不明な点が多い。東晋は、華北からの移住者の無戸籍や脱税を防止するために土断法を定めて戸籍登録を行い、課税を行った。

 一方、485年、北魏は農民に無主の土地を給付し、これを生活基盤にさせて課税を行う均田制を定めた。均田制は唐の時代まで長く続いた制度であったが、北魏の時代の均田制は豪族への配慮から耕牛や奴婢、妻にも耕作地が与えられるなどの点で唐などの均田制とは異なっていた。

 このように、各王朝は多くの土地政策を実施し、大土地所有の制限と農民の確保につとめたが、大土地所有の制限に関しては実効性に乏しく、隋の建国までは豪族の力が強かった。

 魏晋南北朝時代、役人の採用は魏の文帝が創始した九品中正法によった。この目的は中央集権体制の強化であり、豪族達を中央政府の支配下に組み込むことだった。しかし、有力豪族が上級官職を独占し、官職が世襲化されて豪族が貴族化するなどの悪弊が目立つようになり、こうした状況は「上品に寒門なく、下品に勢族なし」などといわれた。


魏晋南北時代の文化

 魏晋南北朝時代、北朝では異民族王朝が続いたため文化的な発展はあまり見られない。一方、南朝では、皇帝の一族や豪族など漢時代の文化の中心人物が江南に移住したことや、比較的自由な文化活動ができたことから、六朝文化が盛えた。

 文学分野では、田園詩人と呼ばれ『帰去来之辞』などを残した陶淵明や、宋の詩人謝霊雲が著名である。梁の皇太子であった昭明太子は詩と散文を集めた『文選』を編集した。文選には、対句を重視した四六駢儷体文などの技巧的なものが多く収録された。書画分野では、『蘭亭序』などを書いて書聖と呼ばれた王羲之や、『女史箴図』などを描いて画聖と呼ばれた顧ト之らが出た。実学分野では、医学書『傷寒論』や、地理書『水経注』、農業書『斉民要術』などの書物が知られる。


仏教・清談・道教

 後漢の初め頃に西域から伝わった仏教は知識人層に広まり、国や貴族の保護を受けて4世紀後半にかけて一般化していった。この間、中国にはブトチンガ(中国名:仏図澄 ;クチャの出身で、310年に洛陽に渡来)やクマラジーヴァ(中国名:鳩摩羅什 ;前秦に招かれて中国を渡来。仏典を漢訳に功績)などの高僧が訪れ、教義が充実した。これとは逆に、中国からインドにおもむいて仏教を学んだ法顕は、『仏国記』を残している。

 仏教伝来後、中国各地で寺院の建設が行われ、ガンダーラ洋式やグプタ様式の影響を受けた仏像も制作された。4世紀以後、敦煌の石窟寺院や雲崗石窟寺院、洛陽近郊の竜門石窟寺院といった大規模な石窟寺院も造営された。

 3世紀、乱世のなかで老荘思想に由来する現実逃避的で厭世的な風潮が流行し、竹林の七賢に代表される清談が流行した。

 5世紀、寇謙之は在来の宗教や思想を複合した道教を確立した。以後、道蔵とよばれる教典が整備され、国の庇護のもとで各地に道観とよばれる寺院施設が設立された。北魏の大武帝は道教を国教化し、廃仏を実施した。三武一宗の法難(大武帝以後、中国では4度の大規模な廃仏があり、その時の皇帝3名に"武"の文字が、1名に"宗"の文字があることからこう呼ばれる)の最初である。



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