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 世界史猛特訓  第 99 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 http://www.sekaishi.com/support/
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 1本文
 
 ドイツの統一
 
  ウィーン会議後、ドイツは分裂状態が続いていた。その統一を目指す動きは
 あったが、プロイセンを中心に据えてドイツ民族の統一を目指した小ドイツ主
 義と、オーストリアを中心に据えて広くドイツ民族の支配地域の統一を目指し
 た大ドイツ主義とが対立した。フランス二月革命後に開かれたフランクフルト
 国民議会では、ブルジョワを中心とした自由主義者によるドイツ統一が模索さ
 れたが、国王がこれを採用しなかったため失敗した。
 
  政治的統一が実現しない一方、ウィーン会議でラインラントを獲得したプロ
 イセンは経済的に充実し、リストの提唱で1833年に発足したドイツ関税同盟に
 よってドイツの経済的結束は強まった。なお、ドイツ関税同盟にはオーストリ
 アは参加しなかった。
 
  1861年に即位したプロイセン王ヴィルヘルム1世は、首相にビスマルクを起
 用してドイツ統一を企図した。ビスマルクは鉄血政策を言明し、武力による統
 一を目指して軍備拡張を進め、それに反対した議会に対して招集を行わないな
 ど強攻策をとった。
 
  1864年、シュレスヴィヒ・ホルシュタインの帰属問題から勃発したデンマー
 ク戦争で、プロイセンはオーストリアと同盟して2州を奪い、これを共同統治
 した。1866年、2州の管理問題からプロイセンとオーストリアの間で普墺戦争
 が勃発し、モルトケ指揮下のプロイセン軍は電撃作戦によってオーストリアに
 勝利した。その講和条約のプラハ条約では、ドイツ連邦の解散と、プロイセン
 によるホルシュタインとシュレスヴィヒ両州の併合を定め、オーストリア支配
 下にあったヴェベツィアのイタリアへの割譲が決まった。
 
  1867年、マイン川以北の22カ国は北ドイツ連邦を結成し、プロイセンを中心
 として結束を固めた。一方、バイエルンを中心に南ドイツ連邦が結成され、ド
 イツは大きく二分された形となり、北と南の対立はあるものの統一には近づい
 た。
 
  1870年、スペイン王位の継承問題から独仏の関係が悪化し、その解決のため
 にエムスで会議が行われた。ビスマルクは、エムスからの電文を意図的に改竄
 して国内発表して、エムス電報事件を起こした。これに憤激したフランスはプ
 ロイセンに宣戦布告して普仏戦争が勃発したが、ドイツ諸邦の連合軍がフラン
 スに侵攻してして優勢を保ち、ナポレオン3世はセダンの戦いで捕虜となって
 しまった。さらにドイツ軍の侵攻は続き、ついにはパリが包囲された。
 
  1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位
 し、ドイツ帝国が成立した
 
  一方、ドイツ統一から外されたオーストリアは、領内での民族主義の高まり
 に苦しんでいた。1867年、オーストリアはマジャール人に自治権を与え、オー
 ストリア=ハンガリー二重帝国へと改組して国内の安定を図ったが、領内には
 他にも多くの民族を抱えており、民族問題は深刻化した。
 
 
 ドイツ帝国
 
  ドイツ帝国は外形的には立憲主義の連邦制をとっていた。しかし、ドイツ帝
 国の連邦議会は無力であり、プロイセン国王が世襲皇帝となり、プロイセン宰
 相が帝国宰相を兼任するなど、実質的にはプロイセンによる支配が行われた。
 初代宰相ビスマルクは、国内の不安定要素であったカトリック勢力の反発や社
 会主義勢力の伸張を押さえ、帝国の基礎を固める政策をとった。
 
  1871年の帝国成立当初から、南西ドイツのカトリック教徒の組織する中央党
 は、中央集権的なプロイセン支配に抵抗する文化闘争を展開した。これに対し
 てビスマルクは弾圧を加え、カトリックの影響力を縮小を図ったが、社会主義
 勢力の伸張に対抗するためにしだいに譲歩し、1880年には文化闘争は終結し
 た。
 
  1878年、ビスマルクは社会主義者鎮圧法を制定して社会主義労働者党の弾圧
 を行った。弾圧の下でも社会主義勢力は縮小せず、社会主義者鎮圧法はビスマ
 ルクの死後廃止された。社会主義者への弾圧の一方で、ビスマルクは社会保険
 制度の整備など社会政策を通じて労働者の懐柔をはかった。
 
  貿易政策は高関税による保護貿易政策に転じ、重工業を中心とする産業の保
 護育成を図った。その結果、20世紀初頭にはドイツは世界第2位の工業国へと
 変貌した。
 
  ビスマルク時代の外交政策は、国内の安定と安全を確保するために国際関係
 の現状を維持し、フランスを孤立状態に置くことに重点が置かれた。その結
 果、ビスマルク時代のヨーロッパでは大きな紛争は発生せず、平和が続いた。
 
  1873年から1878年にかけては、ドイツ、オーストリア、ロシアの三国は三帝
 同盟を結び、各国国境線の現状を維持し、革命運動を阻止するとともに、バル
 カン半島問題の平和的処理を約束した。1878年、ビスマルクはベルリン会議を
 主宰して、露土戦争後のロシアとイギリス・オーストリアの関係を調整した。
 その結果、ドイツとロシアの関係は悪化して三帝同盟は解消されるが、
 1879年、ロシアをおそれたドイツは独墺同盟を結んでロシアに備えた。
 1881年、中央アジアでイギリスと衝突したロシアは再びドイツ・オーストリア
 に接近し、三帝同盟が復活した。1882年にはチュニジアを保護国化したフラン
 スに対立したイタリアが、ドイツ・オーストリアに接近して三国同盟が結ばれ
 た。1887年、バルカンでのロシアとオーストリアの対立で三帝同盟が事実上消
 滅したため、ドイツとロシアは再保障条約を結び、バルカンの現状維持と対第
 三国戦争での好意的中立を約束した。
 
 
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 2カッコ抜き
 
 ドイツの統一
 
  ウィーン会議後、ドイツは分裂状態が続いていた。その統一を目指す動きは
 あったが、プロイセンを中心に据えてドイツ民族の統一を目指した( 1 )
 と、オーストリアを中心に据えて広くドイツ民族の支配地域の統一を目指した
 ( 2 )とが対立した。フランス二月革命後に開かれたフランクフルト国民
 議会では、ブルジョワを中心とした自由主義者によるドイツ統一が模索された
 が、国王がこれを採用しなかったため失敗した。
 
  政治的統一が実現しない一方、ウィーン会議でラインラントを獲得したプロ
 イセンは経済的に充実し、リストの提唱で1833年に発足した( 3 )によっ
 てドイツの経済的結束は強まった。なお、( 3 )にはオーストリアは参加
 しなかった。
 
  1861年に即位したプロイセン王( 4 )は、首相にビスマルクを起用して
 ドイツ統一を企図した。ビスマルクは鉄血政策を言明し、武力による統一を目
 指して軍備拡張を進め、それに反対した議会に対して招集を行わないなど強攻
 策をとった。
 
  1864年、( 5 )の帰属問題から勃発したデンマーク戦争で、プロイセン
 はオーストリアと同盟して2州を奪い、これを共同統治した。1866年、2州の
 管理問題からプロイセンとオーストリアの間で( 6 )戦争が勃発し、モル
 トケ指揮下のプロイセン軍は電撃作戦によってオーストリアに勝利した。その
 講和条約のプラハ条約では、ドイツ連邦の解散と、プロイセンによるホルシュ
 タインとシュレスヴィヒ両州の併合を定め、オーストリア支配下にあった
 ( 7 )のイタリアへの割譲が決まった。
 
  1867年、マイン川以北の22カ国は( 8 )を結成し、プロイセンを中心と
 して結束を固めた。一方、バイエルンを中心に南ドイツ連邦が結成され、ドイ
 ツは大きく二分された形となり、北と南の対立はあるものの統一には近づい
 た。
 
  1870年、スペイン王位の継承問題から独仏の関係が悪化し、その解決のため
 にエムスで会議が行われた。ビスマルクは、エムスからの電文を意図的に改竄
 して国内発表して、エムス電報事件を起こした。これに憤激したフランスはプ
 ロイセンに宣戦布告して( 9 )戦争が勃発したが、ドイツ諸邦の連合軍が
 フランスに侵攻してして優勢を保ち、ナポレオン3世はセダンの戦いで捕虜と
 なってしまった。さらにドイツ軍の侵攻は続き、ついにはパリが包囲された。
 
  1871年1月18日、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位
 し、ドイツ帝国が成立した
 
  一方、ドイツ統一から外されたオーストリアは、領内での民族主義の高まり
 に苦しんでいた。1867年、オーストリアはマジャール人に自治権を与え、
 ( 10 )へと改組して国内の安定を図ったが、領内には他にも多くの民族を
 抱えており、民族問題は深刻化した。
 
 
 ドイツ帝国
 
  ドイツ帝国は外形的には立憲主義の連邦制をとっていた。しかし、ドイツ帝
 国の連邦議会は無力であり、プロイセン国王が世襲皇帝となり、プロイセン宰
 相が帝国宰相を兼任するなど、実質的にはプロイセンによる支配が行われた。
 初代宰相ビスマルクは、国内の不安定要素であったカトリック勢力の反発や社
 会主義勢力の伸張を押さえ、帝国の基礎を固める政策をとった。
 
  1871年の帝国成立当初から、南西ドイツのカトリック教徒の組織する中央党
 は、中央集権的なプロイセン支配に抵抗する( 11 )を展開した。これに対
 してビスマルクは弾圧を加え、カトリックの影響力を縮小を図ったが、社会主
 義勢力の伸張に対抗するためにしだいに譲歩し、1880年には( 11 )は終結
 した。
 
  1878年、ビスマルクは( 12 )を制定して社会主義労働者党の弾圧を行っ
 た。弾圧の下でも社会主義勢力は縮小せず、社会主義者鎮圧法はビスマルクの
 死後廃止された。社会主義者への弾圧の一方で、ビスマルクは社会保険制度の
 整備など社会政策を通じて労働者の懐柔をはかった。
 
  貿易政策は高関税による保護貿易政策に転じ、重工業を中心とする産業の保
 護育成を図った。その結果、20世紀初頭にはドイツは世界第2位の工業国へと
 変貌した。
 
  ビスマルク時代の外交政策は、国内の安定と安全を確保するために国際関係
 の現状を維持し、フランスを孤立状態に置くことに重点が置かれた。その結
 果、ビスマルク時代のヨーロッパでは大きな紛争は発生せず、平和が続いた。
 
  1873年から1878年にかけては、ドイツ、オーストリア、ロシアの三国は
 ( 13 )を結び、各国国境線の現状を維持し、革命運動を阻止するととも
 に、バルカン半島問題の平和的処理を約束した。1878年、ビスマルクは
 ( 14 )を主宰して、露土戦争後のロシアとイギリス・オーストリアの関係
 を調整した。その結果、ドイツとロシアの関係は悪化して三帝同盟は解消され
 るが、1879年、ロシアをおそれたドイツは独墺同盟を結んでロシアに備えた。
 1881年、中央アジアでイギリスと衝突したロシアは再びドイツ・オーストリア
 に接近し、三帝同盟が復活した。1882年にはチュニジアを保護国化したフラン
 スに対立したイタリアが、ドイツ・オーストリアに接近して( 15 )が結ば
 れた。1887年、バルカンでのロシアとオーストリアの対立で三帝同盟が事実上
 消滅したため、ドイツとロシアは( 16 )を結び、バルカンの現状維持と対
 第三国戦争での好意的中立を約束した。
 
 
 
 解答
 1:小ドイツ主義   2:大ドイツ主義   3:ドイツ関税同盟
 4:ヴィルヘルム1世   5:シュレスヴィヒ・ホルシュタイン
 6:普墺   7:ヴェベツィア   8:北ドイツ連邦   9:普仏
 10:オーストリア=ハンガリー二重帝国   11:文化闘争
 12:社会主義者鎮圧法   13:三帝同盟   14:ベルリン会議
 15:三国同盟   16:再保障条約
 
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 3一問一答
 
 1:ヴィルヘルム1世が首相に起用したのは誰か。
 2:「1」の人物がとった、強兵政策のことを何というか
 3:普仏戦争の原因となった問題は何か
 4:三帝同盟への参加国はどこか
 5:三国同盟への参加国はどこか
 
 解答
 1:ビスマルク
 2:鉄血政策
 3:スペイン王位継承問題
 4:ドイツ、オーストリア、ロシア
 5:イタリア、ドイツ、オーストリア
 
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 4ご案内
 
 
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