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 世界史猛特訓  第 89 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
 メールマガジンについての詳細情報は
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 1本文
 
 総裁政府
 
  総裁政府が中心機関であったのは1799年11月、ブリュメールのクーデターま
 でである。総裁政府は、反ジャコバンの名の下に諸派が結集したテルミドール
 派が主導した。総裁政府は国内の秩序回復を第一目標に掲げ、ジャコバン独裁
 期の動揺を静めることを目指した。これを支持したのは有産階級など、保守化
 した人々であった。
 
  テルミドールのクーデター後の国民公会は、旧ジロンド派や旧中間派らの中
 流市民層に近い右派と、ジャコバンの残党や民衆運動家などの下層民に近い左
 派が残った。右派が91年憲法に近い形での共和政での革命の終結を望んだのに
 対し、左派は土地の平等所有などさらなる革命の前進を望んでいた。結局この
 時は右派が主導権を掌握し、1795年8月に95年憲法が制定され、制限選挙制に
 基づく共和政が規定された。この憲法では、ジャコバン独裁の反省から極端な
 権力分立が定められ、二院制の議会と5人の総裁からなる総裁政府が設置され
 た。
 
  1795年10月には総裁政府が発足した。しかし、右派の亡命貴族や王党派が反
 乱を起こしたり、左派のバブーフが革命の徹底と私有財産の否定などを企図し
 たクーデター未遂事件を起こすなど、政局は安定しなかった。また、経済的に
 も財政難や物価の騰貴、食糧難などが続き、国民の各層はこうした問題を解決
 する強力な指導力を求めるようになった。
 
  この段階では、多くの国民が社会秩序の安定と平和の回復を望み、商工ブル
 ジョワや土地を獲得した農民らは、革命の終結と革命の成果の保障を求めた。
 こうした中で軍隊指導者への期待が高まり、1799年11月、ブリュメール18日の
 クーデターでナポレオンが権力を掌握し、統領政府が樹立された。
 
 
 ナポレオンの登場
 
  ナポレオンは1769年、当時のフランス領コルシカ島で誕生し、士官学校へ進
 学、砲兵隊を指揮した。後に革命派の将校として頭角を現し、1795年にはパリ
 で王党派の反乱を鎮圧して総裁政府の信認を獲得した。1796年のイタリア遠征
 では、オーストリアを屈服させ、97年のカンポ=フォルミオ条約によって第一
 回対仏大同盟を崩壊させた。1798年のエジプト遠征では、イギリスとインドの
 連絡を遮断することを目的としたが、アブキール湾の戦いでは、ネルソン提督
 率いるイギリス海軍によりフランス艦隊が全滅し、ナポレオンの部隊はエジプ
 トに孤立した。1799年には第二回対仏大同盟が結成され、イギリス、ロシア、
 オーストリアが同盟してフランス国境に接近し、フランスは再び危機にさらさ
 れた。
 
  1799年11月、国内情勢を知ったナポレオンはエジプトを単身脱出し、ブリュ
 メール18日のクーデターで総裁政府を打倒し、統領政府を樹立した。ここでは
 四院制の議会と3人の統領による政治が行われ、ナポレオンは第一統領に就任
 して独裁権を掌握した。
 
  ナポレオンは、フランス銀行の創設や民法典の公布などで革命の成果を確保
 し、資本主義発展への途をひらくなど革命を継承すると同時に、中央集権や軍
 事的独裁によって専制君主的傾向の統治を行って共和政からは遠のいた。この
 二つは、革命の結果の確定と強力な指導者の出現を望んでいた国民の支持を得
 た。
 
 
 統領ナポレオンの政治
 
  ナポレオンは、対外的には平和の実現と国際情勢の安定を目指し、第二回対
 仏大同盟の打破を目指した。1800年の第二回イタリア遠征では、アルプス越え
 の奇襲をかけたマレンゴの戦いでオーストリアを撃破し、1801年のリュネビル
 条約でライン西岸を得た。同じく1801年にはコンコルダート(宗教協約)を教
 皇との間で締結し、革命以後対立していたローマ教皇と和解して、国内のカト
 リック勢力との結合を強めた。1802年にはイギリスとの間にアミアンの和約が
 結ばれてイギリスと休戦が成立し、第二回対仏大同盟は解消した。
 
  ナポレオンの内政は、秩序の回復と社会の安定に主眼が置かれた。1800年、
 フランス銀行が設立され、アッシニアの回収と財政再建が図られた。さらに、
 1803年、フランス銀行には兌換紙幣の独占発行権が与えられた。確固とした中
 央銀行を設立したことは、経済の安定の基礎となった。また、国内関税を廃止
 することで全ての商取引の自由を保障した。1802年、ナポレオンは憲法の改正
 と国民投票によって終身統領に就任した。
 
  1804年3月、ナポレオン民法典が公布された。これは法典の最初で、後に訴
 訟法や商法などが追加され、1811年にナポレオン法典は完成した。民法典の内
 容は、所有権の不可侵、法の下の平等、経済活動の自由など、近代的なもので
 ある。この民法典によって革命の成果が定着され、市民社会の原理が具体的に
 立法化された。また、これが後の各国の民法典の基準、模範となり、後々に渡
 って影響を与えた。
 
  1804年5月、国民投票での圧倒的な支持により、世襲皇帝であるナポレオン
 1世として即位し、1814、1815年に至る第一帝政が成立した。
 
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 2カッコ抜き
 
 総裁政府
 
  総裁政府が中心機関であったのは1799年11月、ブリュメールのクーデターま
 でである。総裁政府は、反ジャコバンの名の下に諸派が結集した( 1 )派
 が主導した。総裁政府は国内の秩序回復を第一目標に掲げ、ジャコバン独裁期
 の動揺を静めることを目指した。これを支持したのは有産階級など、保守化し
 た人々であった。
 
  テルミドールのクーデター後の国民公会は、旧ジロンド派や旧中間派らの中
 流市民層に近い右派と、ジャコバンの残党や民衆運動家などの下層民に近い左
 派が残った。右派が91年憲法に近い形での共和政での革命の終結を望んだのに
 対し、左派は土地の平等所有などさらなる革命の前進を望んでいた。結局この
 時は右派が主導権を掌握し、1795年8月に( 2 )が制定され、制限選挙制
 に基づく共和政が規定された。この憲法では、ジャコバン独裁の反省から極端
 な権力分立が定められ、二院制の議会と5人の総裁からなる総裁政府が設置さ
 れた。
 
  1795年10月には総裁政府が発足した。しかし、右派の亡命貴族や王党派が反
 乱を起こしたり、左派の( 3 )が革命の徹底と私有財産の否定などを企図
 したクーデター未遂事件を起こすなど、政局は安定しなかった。また、経済的
 にも財政難や物価の騰貴、食糧難などが続き、国民の各層はこうした問題を解
 決する強力な指導力を求めるようになった。
 
  この段階では、多くの国民が社会秩序の安定と平和の回復を望み、商工ブル
 ジョワや土地を獲得した農民らは、革命の終結と革命の成果の保障を求めた。
 こうした中で軍隊指導者への期待が高まり、1799年11月、( 4 )でナポレ
 オンが権力を掌握し、統領政府が樹立された。
 
 
 ナポレオンの登場
 
  ナポレオンは1769年、当時のフランス領( 5 )で誕生し、士官学校へ進
 学、砲兵隊を指揮した。後に革命派の将校として頭角を現し、1795年にはパリ
 で王党派の反乱を鎮圧して総裁政府の信認を獲得した。1796年の( 6 )で
 は、オーストリアを屈服させ、97年のカンポ=フォルミオ条約によって第一回
 対仏大同盟を崩壊させた。1798年の( 7 )では、イギリスとインドの連絡
 を遮断することを目的としたが、アブキール湾の戦いでは、ネルソン提督率い
 るイギリス海軍によりフランス艦隊が全滅し、ナポレオンの部隊はエジプトに
 孤立した。1799年には( 8 )が結成され、イギリス、ロシア、オーストリ
 アが同盟してフランス国境に接近し、フランスは再び危機にさらされた。
 
  1799年11月、国内情勢を知ったナポレオンはエジプトを単身脱出し、
 ( 4 )で総裁政府を打倒し、( 9 )政府を樹立した。ここでは四院制
 の議会と3人の統領による政治が行われ、ナポレオンは第一統領に就任して独
 裁権を掌握した。
 
  ナポレオンは、フランス銀行の創設や民法典の公布などで革命の成果を確保
 し、資本主義発展への途をひらくなど革命を継承すると同時に、中央集権や軍
 事的独裁によって専制君主的傾向の統治を行って共和政からは遠のいた。この
 二つは、革命の結果の確定と強力な指導者の出現を望んでいた国民の支持を得
 た。
 
 
 統領ナポレオンの政治
 
  ナポレオンは、対外的には平和の実現と国際情勢の安定を目指し、第二回対
 仏大同盟の打破を目指した。1800年の第二回イタリア遠征では、アルプス越え
 の奇襲をかけたマレンゴの戦いでオーストリアを撃破し、1801年のリュネビル
 条約でライン西岸を得た。同じく1801年には( 10 )を教皇との間で締結
 し、革命以後対立していたローマ教皇と和解して、国内のカトリック勢力との
 結合を強めた。1802年にはイギリスとの間に( 11 )が結ばれてイギリスと
 休戦が成立し、第二回対仏大同盟は解消した。
 
  ナポレオンの内政は、秩序の回復と社会の安定に主眼が置かれた。1800年、
 ( 12 )が設立され、アッシニアの回収と財政再建が図られた。さらに、
 1803年、フランス銀行には兌換紙幣の独占発行権が与えられた。確固とした中
 央銀行を設立したことは、経済の安定の基礎となった。また、国内関税を廃止
 することで全ての商取引の自由を保障した。1802年、ナポレオンは憲法の改正
 と国民投票によって終身統領に就任した。
 
  1804年3月、( 13 )が公布された。これは法典の最初で、後に訴訟法や
 商法などが追加され、1811年にナポレオン法典は完成した。民法典の内容は、
 所有権の不可侵、法の下の平等、経済活動の自由など、近代的なものである。
 この民法典によって革命の成果が定着され、市民社会の原理が具体的に立法化
 された。また、これが後の各国の民法典の基準、模範となり、後々に渡って影
 響を与えた。
 
  1804年5月、国民投票での圧倒的な支持により、世襲皇帝である
 ( 14 )として即位し、1814、1815年に至る第一帝政が成立した。
 
 
 
 解答
 1:テルミドール(熱月)   2:95年憲法   3:バブーフ
 4:ブリュメール18日のクーデター   5:コルシカ島
 6:イタリア遠征   7:エジプト遠征   8:第二回対仏大同盟
 9:統領   10:コンコルダート(宗教協約)   11:アミアンの和約
 12;:フランス銀行   13:ナポレオン民法典   14:ナポレオン1世
 
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 3一問一答
 
 1:テルミドールのクーデター後、95年憲法に基づき成立したのは何政府か。
 2:ブリュメール18日のクーデターで権力を掌握したのは誰か
 3:1801年、ナポレオンの地位は何であったか
 4:1803年、ナポレオンの地位は何であったか
 
 
 解答
 1:総裁政府
 2:ナポレオン(ナポレオン=ボナパルト)
 3:第一統領(統領)
 4:終身統領
 
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