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 世界史猛特訓  第 88 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 1本文
 
 国民公会
 
  国民公会が革命の中心的機関であったは1793年6月の、ジャコバン派クーデ
 ターまでである。ただし、国民公会自体は1795年10月まで存続している。この
 期間に指導的役割を果たしたのは、ブリソーやコンドルセら穏健共和派のジロ
 ンド派、マラー、ダントン、ロベスピエールら急進共和派のジャコバン派であ
 った。国民公会ではジロンド派が右派、ジャコバン派が左派となったが、これ
 らはともに共和政の樹立と、対外戦争での祖国の防衛を目指した。こうした主
 張の支持層は、サン=キュロットと呼ばれた都市民衆や都市の小市民、下層農
 民らであった。
 
  国民公会が召集される前日の1792年9月20日、ヴァルミーの戦いで義勇兵が
 プロイセン軍を撃退し、初勝利をあげた。ここから戦局は転換し、革命は防衛
 され戦況も比較的落ち着いた。この戦いについて、プロイセン軍側にいたゲー
 テは「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」との言葉を
 残している。
 
  1792年9月21日には国民公会が召集された。議員はほとんどが共和派であ
 り、正式に王権の停止を決議して共和政樹立を宣言した。ここから1804年まで
 が、第一共和政の時期である。国民公会では共和派が主流を占めたが、保守化
 したジロンド派とジャコバン派の対立が顕著となり、共和派は分裂した。ジロ
 ンド派は議会外の民衆が一層過激化することを恐れたが、ジャコバン派は革命
 の防衛とさらなる前進を主張したためである。
 
  1793年1月、国王ルイ16世が処刑されて、共和政の政体が確固たるものにな
 った。一方、対外戦争ではフランス軍の優勢が続き、フランス軍はついに国境
 を越えてベルギーに侵攻した。
 
  1793年3月、こうした状況下でイギリス首相小ピットは、オランダ、プロイ
 セン、オーストリア、スペインなどに呼びかけ、第一回対仏大同盟を結成し、
 フランスに圧力をかけた。その結果再びフランス軍の戦況は悪化し、国内では
 保守派が台頭して王党派などの反革命反乱が拡大して、革命は再び内憂外患の
 危機にさらされた。
 
 
 ジャコバン独裁
 
  ジャコバン独裁の期間は1794年のテルミドールのクーデターまでである。こ
 の期間に指導的役割を果たしたのは、ジャコバン派内の山岳派が指導して権力
 を集中した公安委員会で、ロベスピエールが中心となって独裁体制をしいた。
 この期間には、徹底した改革と革命の防衛による革命の推進が行われ、革命が
 激化した。革命の推進を支持したのはサン=キュロットと呼ばれたと市民民衆
 や、これまでの革命の恩恵が薄かった下層農民達である。
 
  1793年6月2日、ジャコバン派のクーデターが起こった。このクーデターで
 はサン=キュロットの蜂起や、議会からのジロンド派議員の追放、逮捕が行わ
 れ、ジャコバン派による独裁が始まった。
 
  ジャコバンの独裁政権は恐怖政治を敷き、革命を防衛するため、反革命の王
 党派やジロンド派の多くを処刑した。統治は公安委員会を頂点に、その下に警
 察機関である保安委員会や、反革命容疑者等の審理と処刑を行った革命裁判所
 がおかれた。こうして独裁体制を固めたジャコバン派では、派内の対立が深刻
 化し、独裁者ロベスピエールは左派のエーベルや右派のダントンら、同派内の
 粛清して反対派を抹殺した。
 
  こうした恐怖政治のなか、革命は一層徹底され、93年憲法(ジャコバン憲
 法)では、人民主権や男子普通選挙制などの民主的内容が盛り込まれた。しか
 し、実施は平和時まで延期されたため、この憲法は結局施行されなかった。
 
  また、封建的特権の無償廃止が行われ、封建制の全面的な無償廃止が行われ
 て多数の自作農が創出され、農民は解放された。この際、聖職者や亡命貴族の
 土地財産は没収され、払い下げも行われたが、こちらは競売制であった。
 
  また、強力な物価統制政策として最高価格令が公布され、価格統制と食料の
 配給制が敷かれた。これは都市下層市民の生活の保護を企図したものであった
 が、商工業者らの反発にあって失敗し、後に廃止された。
 
  その他、徴兵制が実施され、王の軍隊ではなく国民軍が形成することで、軍
 の強化がはかられた。これは公安委員カルノーの建議によって採用された制度
 で、国民皆兵制となって近代的国民軍の創設がすすみ、軍の士気の高揚にも寄
 与した。
 
  また、非宗教の立場から、革命暦の採用やキリスト教にかわる新宗教の創
 設、メートル法の採用などが行われた。しかし、理性崇拝の新宗教は消滅し、
 革命暦も1805年にはグレゴリ暦に戻された。メートル法は革命後に実施され、
 現在に至っている。
 
  こうしたジャコバン独裁に対し、当初は独裁を支持していた層が次第に離反
 していった。恐怖政治そのものへの不満や、経済統制の効果が芳しくないこ
 と、物価が高騰する中での賃金据え置きに対する不満が、商工業ブルジョワや
 都市民衆に蓄積された。また、革命の成果を手中にして自作農化した下層農民
 らは保守化し、それ以上の革命を望まなくなった。さらに、民衆運動の統制に
 よって都市民衆の離反が進んで独裁は支持基盤を失った。
 
  そして1794年7月27日、テルミドール反動(テルミドールのクーデター)で
 穏健な共和派によってロベスピエールらが逮捕、処刑され、独裁と恐怖政
 治は終焉を迎えた。
 
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 2カッコ抜き
 
 
 国民公会
 
  国民公会が革命の中心的機関であったは1793年6月の、ジャコバン派クーデ
 ターまでである。ただし、国民公会自体は1795年10月まで存続している。この
 期間に指導的役割を果たしたのは、ブリソーやコンドルセら穏健共和派のジロ
 ンド派、マラー、ダントン、ロベスピエールら急進共和派の( 1 )派であ
 った。国民公会ではジロンド派が右派、ジャコバン派が左派となったが、これ
 らはともに共和政の樹立と、対外戦争での祖国の防衛を目指した。こうした主
 張の支持層は、( 2 )と呼ばれた都市民衆や都市の小市民、下層農民らで
 あった。
 
  国民公会が召集される前日の1792年9月20日、( 3 )の戦いで義勇兵が
 プロイセン軍を撃退し、初勝利をあげた。ここから戦局は転換し、革命は防衛
 され戦況も比較的落ち着いた。この戦いについて、プロイセン軍側にいたゲー
 テは「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」との言葉を
 残している。
 
  1792年9月21日には国民公会が召集された。議員はほとんどが共和派であ
 り、正式に王権の停止を決議して共和政樹立を宣言した。ここから1804年まで
 が、第一共和政の時期である。国民公会では共和派が主流を占めたが、保守化
 したジロンド派とジャコバン派の対立が顕著となり、共和派は分裂した。ジロ
 ンド派は議会外の民衆が一層過激化することを恐れたが、ジャコバン派は革命
 の防衛とさらなる前進を主張したためである。
 
  1793年1月、( 4 )が処刑されて、共和政の政体が確固たるものになっ
 た。一方、対外戦争ではフランス軍の優勢が続き、フランス軍はついに国境を
 越えてベルギーに侵攻した。
 
  1793年3月、こうした状況下でイギリス首相( 5 )は、オランダ、プロ
 イセン、オーストリア、スペインなどに呼びかけ、第一回対仏大同盟を結成
 し、フランスに圧力をかけた。その結果再びフランス軍の戦況は悪化し、国内
 では保守派が台頭して王党派などの反革命反乱が拡大して、革命は再び内憂外
 患の危機にさらされた。
 
 
 ジャコバン独裁
 
  ジャコバン独裁の期間は1794年のテルミドールのクーデターまでである。こ
 の期間に指導的役割を果たしたのは、ジャコバン派内の山岳派が指導して権力
 を集中した( 6 )で、ロベスピエールが中心となって独裁体制をしいた。
 この期間には、徹底した改革と革命の防衛による革命の推進が行われ、革命が
 激化した。革命の推進を支持したのはサン=キュロットと呼ばれたと市民民衆
 や、これまでの革命の恩恵が薄かった下層農民達である。
 
  1793年6月2日、ジャコバン派のクーデターが起こった。このクーデターで
 はサン=キュロットの蜂起や、議会からのジロンド派議員の追放、逮捕が行わ
 れ、ジャコバン派による独裁が始まった。
 
  ジャコバンの独裁政権は( 7 )政治を敷き、革命を防衛するため、反革
 命の王党派やジロンド派の多くを処刑した。統治は公安委員会を頂点に、その
 下に警察機関である保安委員会や、反革命容疑者等の審理と処刑を行った
 ( 8 )がおかれた。こうして独裁体制を固めたジャコバン派では、派内の
 対立が深刻化し、独裁者ロベスピエールは左派のエーベルや右派の
 ( 9 )ら、同派内の粛清して反対派を抹殺した。
 
  こうした恐怖政治のなか、革命は一層徹底され、( 10 )憲法では、人民
 主権や男子普通選挙制などの民主的内容が盛り込まれた。しかし、実施は平和
 時まで延期されたため、この憲法は結局施行されなかった。
 
  また、( 11 )が行われ、封建制の全面的な無償廃止が行われて多数の自
 作農が創出され、農民は解放された。この際、聖職者や亡命貴族の土地財産は
 没収され、払い下げも行われたが、こちらは競売制であった。
 
  また、強力な物価統制政策として( 12 )が公布され、価格統制と食料の
 配給制が敷かれた。これは都市下層市民の生活の保護を企図したものであった
 が、商工業者らの反発にあって失敗し、後に廃止された。
 
  その他、( 13 )が実施され、王の軍隊ではなく国民軍が形成すること
 で、軍の強化がはかられた。これは公安委員カルノーの建議によって採用され
 た制度で、国民皆兵制となって近代的国民軍の創設がすすみ、軍の士気の高揚
 にも寄与した。
 
  また、非宗教の立場から、( 14 )の採用やキリスト教にかわる新宗教の
 創設、( 15 )の採用などが行われた。しかし、理性崇拝の新宗教は消滅
 し、革命暦も1805年にはグレゴリ暦に戻された。メートル法は革命後に実施さ
 れ、現在に至っている。
 
  こうしたジャコバン独裁に対し、当初は独裁を支持していた層が次第に離反
 していった。恐怖政治そのものへの不満や、経済統制の効果が芳しくないこ
 と、物価が高騰する中での賃金据え置きに対する不満が、商工業ブルジョワや
 都市民衆に蓄積された。また、革命の成果を手中にして自作農化した下層農民
 らは保守化し、それ以上の革命を望まなくなった。さらに、民衆運動の統制に
 よって都市民衆の離反が進んで独裁は支持基盤を失った。
 
  そして、1794年7月27日、( 16 )で穏健な共和派によってロベスピエー
 ルらが逮捕、処刑され、独裁と恐怖政治は終焉を迎えた。
 
 
 解答
 1:ジャコバン   2:サン=キュロット   3:ヴァルミー
 4:ルイ16世   5:小ピット   6:公安委員会   7:恐怖
 8:革命裁判所   9:ダントン   10:93年(1793年/ジャコバン)
 11:封建的特権の無償廃止(封建的貢租の無償廃止)   12:最高価格令
 13:徴兵制   14:革命暦   15:メートル法
 16:テルミドール反動
 
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 3一問一答
 1:イギリスの小ピットが提唱し、各国が加盟した、1793年に発足した反革命
   同盟を何というか
 2:恐怖政治を推進したジャコバン派の指導者は誰か
 
 解答
 1:第1回対仏大同盟
 2:ロベスピエール
 
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