| -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
世界史猛特訓 第 87 号 バックナンバー配送バージョン
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
#この文書は「世界史猛特訓」のバックナンバーです。今までに配送し
#てきたものを、そのままの形で配送しています。
このメールは表示幅を71桁以上にしてご覧頂くと快適にお読み頂けます
もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
メールマガジンについての詳細情報は
http://www.sekaishi.com/support/
からどうぞ。
*************************************************************
1本文
憲法制定議会
憲法制定議会は1791年の91年憲法制定まで続いた。この期間に指導的役割を
果たしたのは、ミラボーやラファイエットら立憲君主派で、穏健な改革を行う
ことで王政を存続させ、イギリス型の立憲君主制を志向した。こうした主張を
支持したのは自由主義貴族や上層市民など、裕福な層であった。
憲法制定議会の成立後、1789年7月12日にはパリの民衆が蜂起し、14日には
バスティーユ牢獄の襲撃で革命が勃発た。暴動や一揆は全国に波及し、憲法制
定議会としては各地の暴動や一揆を沈静化するため、国政改革がまずは必要で
あった。
そこで、同年8月4日に封建的特権の廃止が宣言された。ここでは、領主裁
判権や教会への十分の一税など、中世以後の農民の身分的隷属が撤廃された。
また、土地に対する封建地代の有償での廃止や、年貢の25倍の支払いによる土
地取得なども盛り込まれ、農民の自営農化への道も開いた。これによって各地
の農民反乱は急速に終息したが、自営農化した農民は少数にとどまり、富農に
有利な制度であった。
8月26日にはフランス人権宣言が決議された。これはラファイエットやシェ
イエスらによって起草された、フランス人権宣言は市民革命の原理を表明した
ため、旧制度の死亡証明書とも言われる。この中で、自由権や所有権、安全、
抑圧への抵抗などの自然権が保障され、主権在民を規定し、財産権の不可侵を
謳った。所有権や財産権が強調されているのは、上層民が起草に携わったため
に、自らの財産を保障する意図があったと考えられる。一方、同時期に食糧不
足が深刻化していた。
10月5日にはヴェルサイユ行進が起こり、婦人を中心としたデモ隊がパンの
値上がりに講義し、陳情するためヴェルサイユに押し掛けた。その際、国王や
議会はパリに移され、市民の監視下に置かれることとなった。
翌1790年には自由主義的な諸改革が実行された。教会財産の没収と国有化、
商工業の自由な発展のためのギルドの廃止、度量衡の統一、行政区画の再編に
よる地方自治改革、ユダヤ人とフランス在留外国人への人権保障、貴族の尊称
廃止や革命旗の採用などが行われた。また、財政再建のため、教会から没収し
た財産を担保にアッシニア(債券)を発行した。しかし、結果的にはアッシニ
アの乱発でこの目論みは失敗し、激しいインフレが起こって国民生活は厳しさ
を増し、革命を激化させた。
こうして穏やかな改革が進んでいったが、1791年6月のヴァレンヌ事件で国
王一家の国外逃亡未遂が発覚すると、国王への国民の不信は増大した。こうし
た内憂に加え、8月にはオーストリアとプロイセンがピルニッツ宣言を出し、
王権を復活しなければ軍事介入を行うと通告するなどの外患もあった。
こうした状況の中で、91年憲法が発布された。ここでは立憲王政を宣言して
イギリス型の政治体制を志向し、選挙権を有産市民に限定した制限選挙制を定
めた。議会派一院制であった。この憲法のもとで国民議会は解散され、91年憲
法に基づく選挙が行われた。
この後、革命は過激さを増して進展していく。その理由としては、国王や亡
命貴族が革命を承認せず、あくまで抵抗したこと。オーストリア、プロイセン
が干渉を企てたこと。アッシニア乱発など経済運営の失敗や不安定な経済状態
により、民衆の困窮化が進行したこと。などが挙げられる。
立法議会
立法議会は8月10日事件まで続いた。この期間に指導的役割を果たしたのは
、ブリソーやコンドルセら穏健共和政を目指したジロンド派で、穏健な形での
共和政樹立や、経済の自由放任を主張した。こうした主張を支持したのは、当
時力を増していた商工ブルジョワ、つまり中産市民であった。
1791年に開催された立法議会では、フイヤン派が第一党を占めていたが、穏
健共和派のジロンド派や、急進派のジャコバン派など、共和派の進出も目立っ
ていた。この時期には、フイヤン派は保守化し、フイヤン派とジロンド派が政
権を争った。その結果、1792年3月にはジロンド派内閣が成立した。
1792年4月、ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦布告し、ここから、ナポ
レオン没落までの一連の対外戦争が始まった。しかし、フランス軍は準備不足
に加え王党派士官が多くて士気が低く、戦況はフランスに不利であった。オー
ストリアとプロイセンの連合軍はパリに接近し、革命は危機に瀕した。そうし
た状況で、全国からパリへ義勇兵が結集した。国王は義勇兵を正式な軍隊とは
認めなかったが、義勇兵は後の戦局好転への大きな原動力となった。
1792年8月10日、ジャコバン派の指導するパリの民衆や義勇兵が、王のいる
テュルリー宮を襲撃するという、8月10日事件が起こり、その結果王は幽閉さ
れて王権の停止が宣言された。そして、立法議会は解散され、男子普通選挙に
よる新議会の召集へ動き出した。
*************************************************************
2カッコ抜き
憲法制定議会
憲法制定議会は1791年の91年憲法制定まで続いた。この期間に指導的役割を
果たしたのは、( 1 )や( 2 )ら立憲君主派で、穏健な改革を行うこ
とで王政を存続させ、イギリス型の立憲君主制を志向した。こうした主張を支
持したのは自由主義貴族や上層市民など、裕福な層であった。
憲法制定議会の成立後、1789年7月12日にはパリの民衆が蜂起し、14日には
( 3 )の襲撃で革命が勃発た。暴動や一揆は全国に波及し、憲法制定議会
としては各地の暴動や一揆を沈静化するため、国政改革がまずは必要であった
。
そこで、同年8月4日に( 4 )が宣言された。ここでは、領主裁判権や
教会への十分の一税など、中世以後の農民の身分的隷属が撤廃された。また、
土地に対する封建地代の有償での廃止や、年貢の25倍の支払いによる土地取得
なども盛り込まれ、農民の自営農化への道も開いた。これによって各地の農民
反乱は急速に終息したが、自営農化した農民は少数にとどまり、富農に有利な
制度であった。
8月26日にはフランス( 5 )が決議された。これはラファイエットやシェ
イエスらによって起草された、フランス人権宣言は市民革命の原理を表明した
ため、旧制度の死亡証明書とも言われる。この中で、自由権や所有権、安全、
抑圧への抵抗などの自然権が保障され、主権在民を規定し、財産権の不可侵を
謳った。所有権や財産権が強調されているのは、上層民が起草に携わったため
に、自らの財産を保障する意図があったと考えられる。一方、同時期に食糧不
足が深刻化していた。
10月5日には( 6 )が起こり、婦人を中心としたデモ隊がパンの値上が
りに講義し、陳情するためヴェルサイユに押し掛けた。その際、国王や議会は
パリに移され、市民の監視下に置かれることとなった。
翌1790年には自由主義的な諸改革が実行された。教会財産の没収と国有化、
商工業の自由な発展のためのギルドの廃止、度量衡の統一、行政区画の再編に
よる地方自治改革、ユダヤ人とフランス在留外国人への人権保障、貴族の尊称
廃止や革命旗の採用などが行われた。また、財政再建のため、教会から没収し
た財産を担保にアッシニア(債券)を発行した。しかし、結果的にはアッシニ
アの乱発でこの目論みは失敗し、激しいインフレが起こって国民生活は厳しさ
を増し、革命を激化させた。
こうして穏やかな改革が進んでいったが、1791年6月のヴァレンヌ事件で国
王一家の国外逃亡未遂が発覚すると、国王への国民の不信は増大した。こうし
た内憂に加え、8月にはオーストリアとプロイセンが( 7 )宣言を出し、
王権を復活しなければ軍事介入を行うと通告するなどの外患もあった。
こうした状況の中で、( 8 )が発布された。ここでは立憲王政を宣言し
てイギリス型の政治体制を志向し、選挙権を有産市民に限定した制限選挙制を
定めた。議会派一院制であった。この憲法のもとで国民議会は解散され、91年
憲法に基づく選挙が行われた。
この後、革命は過激さを増して進展していく。その理由としては、国王や亡
命貴族が革命を承認せず、あくまで抵抗したこと。オーストリア、プロイセン
が干渉を企てたこと。アッシニア乱発など経済運営の失敗や不安定な経済状態
により、民衆の困窮化が進行したこと。などが挙げられる。
立法議会
立法議会は8月10日事件まで続いた。この期間に指導的役割を果たしたのは
、ブリソーやコンドルセら穏健共和政を目指した( 9 )派で、穏健な形で
の共和政樹立や、経済の自由放任を主張した。こうした主張を支持したのは、
当時力を増していた商工ブルジョワ、つまり中産市民であった。
1791年に開催された立法議会では、フイヤン派が第一党を占めていたが、穏
健共和派のジロンド派や、急進派の( 10 )派など、共和派の進出も目立っ
ていた。この時期には、( 11 )派は保守化し、フイヤン派とジロンド派が
政権を争った。その結果、1792年3月にはジロンド派内閣が成立した。
1792年4月、ジロンド派内閣はオーストリアに宣戦布告し、ここから、ナポ
レオン没落までの一連の対外戦争が始まった。しかし、フランス軍は準備不足
に加え王党派士官が多くて士気が低く、戦況はフランスに不利であった。オー
ストリアとプロイセンの連合軍はパリに接近し、革命は危機に瀕した。そうし
た状況で、全国からパリへ義勇兵が結集した。国王は義勇兵を正式な軍隊とは
認めなかったが、義勇兵は後の戦局好転への大きな原動力となった。
1792年( 12 )、ジャコバン派の指導するパリの民衆や義勇兵が、王のい
るテュルリー宮を襲撃するという、( 12 )事件が起こり、その結果王は幽
閉されて王権の停止が宣言された。そして、立法議会は解散され、男子普通選
挙による新議会の召集へ動き出した。
解答
1・2:ミラボー/ラファイエット(順不同) 3:バスティーユ牢獄
4:封建的特権の廃止 5:人権宣言 6:ヴェルサイユ行進
7:ピルニッツ 8:91年憲法 9:ジロンド 10:ジャコバン
11:フイヤン 12:8月10日
*************************************************************
3一問一答
1:1791年6月に起こった、国王一家の国外逃亡未遂事件を何というか
2:立法議会で、1792年3月に政権をとったのは何派か
3:8月10日事件の次の選挙はどのような制度で行われたか
4:8月10日事件で攻防の舞台となったのはパリのどこか
解答
1:ヴァレンヌ事件
2:ジロンド派
3:男子普通選挙
4:テュルリー宮
*************************************************************
4ご案内
====メールマガジン関連のご案内====
ここに掲載する内容は正誤を確認してはおりますが、大量の資料を扱うため
予期せずに間違いが流れてしまうことがあります。間違いを発見なさった方
はwebmaster@sekaishi.comまでご連絡いただきたいと思います。また、
致命的な間違いは、発見され次第、訂正版をお送りいたします。
このメールマガジン内で記述された会社名・商品名は、各社の商標または登
録商標です。
※このメールマガジンに起因するいかなる損害も作者は保証いたしません
※このメールマガジンに関し、編集・発行者は著作権を主張します。
※詳しくは、http://www.sekaishi.com/support/author.html
※の「著作権について」をご覧下さい。
====ウェブサイトのご案内====
メールマガジン登録・解除(機能的です)
http://www.sekaishi.com/mailmag/tokai.html
掲示板(暫定運営中)
http://www.sekaishi.com/bbs/
バックナンバー集(全てのバックナンバーを一覧できます)
http://www.sekaishi.com/mailmag/sekamo/
更新情報
http://www.sekaishi.com/whatsnew.html
中国歴史用語変換辞書for ATOK9/ATOK11(日本語変換ライブラリ)
http://www.sekaishi.com/im/
*「ATOK」は株式会社ジャストシステムの登録商標です。
*************************************************************
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
編集・発行:世界史猛特訓製作委員会
The World History
連絡先:webmaster@sekaishi.com
ホーム:http://www.sekaishi.com/
メルマガの登録・解除、バックナンバーのページ等があります。
このメールマガジンの著作権は編集・発行人が保持しています。
(c) 1998-2002 世界史猛特訓製作委員会
The World History
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= |
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
|