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 世界史猛特訓  第 78 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
 メールマガジンについての詳細情報は
 http://www.sekaishi.com/support/
 からどうぞ。
 
 ************************************************************* 
 1本文
 
 清の統治制度
 
  清は、現在の中国とほぼ同じ広大な版図を有していた。巨大な領土を維持す
 るため、中国内地と満州地方、台湾を直轄地として治める一方、内外モンゴル
 や青海、回部、チベットでは各民族の自治を許す間接統治を行った。その統括
 のための機関としてホンタイジの時代に理藩院が設置され、乾隆帝の時代にそ
 の制度がさらに整備された。さらに、真の周辺にあった朝鮮やベトナム、シャ
 ム(現在のタイ)、ビルマ、ネパールなどは朝貢国として位置づけられ、清が
 宗主権を持っていた。
 
  清は、30万人という少数の満州族で数億の人民を擁する定刻を支配するため
 、明の官制をほぼ継承する一方、重要ポストには漢人と満州人を1人ずつおく
 満漢併用制を採用した。これにより、これによって漢人官僚や知識人の協力を
 得つつ、満州人が実権を掌握するということが可能になった。また、雍正帝時
 代、軍機処が軍事行政の最高機関として臨時設置されたが後に常設機関化し、
 もともとの官制に取って代わった。軍事制度の八旗には、満州八旗、漢人八旗
 、蒙古八旗の3種類の八旗があり、構成員は世襲であった。また、八旗の補強
 として漢人の募集兵部隊である緑営が設立され、警察活動などを行っていた。
 
  征服王朝である清に対しては漢民族による反清復明運動が展開されたが、清
 はこれに対して厳格な取り締まりを行った。弁髪令を出して満州の風俗である
 弁髪を強制したり、禁書令などの思想統制を徹底して文字の獄といった事件も
 起こした。その一方、朱子学の官学化や科挙の実施など中国の伝統を尊重し、
 大編纂事業に代表される協力的知識人の厚遇をするなど、懐柔を図った。
 
  対外関係は、明末には私貿易が流行してヨーロッパ人が来航するなどかなり
 貿易活動が盛んに行われており、清も初めのうちはかなり自由な貿易が行われ
 ていた。しかし、1757年に乾隆帝が海外貿易を広州一港に限定し、貿易取扱も
 公行とよばれる特許商人組合による独占する厳しい制限をかけた。
 
 
 明清の社会
 
  明清の時代、中国は着実な社会発展を遂げ、18世紀半ばには人口は2億人に
 達した。しかし、急激な人口の伸びは農業生産の伸びを越えたために養いきれ
 ない余剰人口が発生し、一部では貧困化が問題となった。そうしたなか、長江
 中流域から広東省や広西省雲南省の方面へ人口が拡散するとともに、台湾やモ
 ンゴル高原、東トルキスタンや満州など周辺地域にもあふれ出した。さらに、
 国禁をおかして海外へ移住する人々も増え、東南アジアなどへの南洋華僑が進
 出した。
 
  このころ、江南地域は農工商業の中枢となり、文化の中心発信地となってい
 た。農業分野では長江中流域の湖北・湖南省(湖広)が穀倉地帯として台頭し
 て武漢が集散地となっていたし、長江下流域では桑や綿花などの商品作物の栽
 培が盛んになっていた。商品作物は農家の副業として発展し、綿織物や絹織物
 といった手工業も発展した。綿織物は松江、絹織物は蘇州や杭州、上海が中心
 生産地とであった。また、このような産品が集まる都市が繁栄し、南京や杭州
 、上海などは商業都市としても繁栄した。
 
  明清の時代になると、長江付近に集まる各種物資を他地域へ流通するために
 商業が発展し、全国規模で活動する大商人が現れた。明に時代に塩の専売を委
 託されていた新安商人や、長城に物資を供給することを任されていた山西商人
 などである。これらの商人は主要都市に同郷者や同業者の拠点を設置していた
 。これが会館や公所と呼ばれる施設で、次第に機能を拡張していった。
 
  海外との貿易は厳しい海禁政策もあって明代にはあまり発展しなかったが、
 清代の16世紀以降は発展した。中国からは絹や茶、陶磁器、木綿が輸出され、
 その対価として銀を得るというのが主な貿易の形で、初めはポルトガルがマカ
 オ経由で日本銀を、続いてスペインがマニラ、太平洋経由でメキシコ銀を、そ
 して最後はオランダが台湾経由で日本銀を、それぞれ中国に持ち込んだ。ポル
 トガルとオランダは従来の日中貿易に割り込んだ形であったが、スペインは自
 国植民地のメキシコで産出される銀を利用した貿易を行っていた。スペインが
 行った貿易を特にアカプルコ貿易という。
 
  15世紀末からの外国貿易による銀の大量流入は次第に中国の社会制度を変革
 していった。明の初めには貨幣として銅銭の他、紙幣(宝鈔)も使用されてい
 たが、元末の紙幣乱発によって紙幣の信用は低下していた。そうしたこともあ
 って、明の末には各地各階層で大規模取引には銀が用いられるようになり、通
 貨の主役として機能するようになった。
 
   このような経済の変化とともに、税制も改革された。唐の後期からの両税法
 はその仕組みが煩雑で、徴税も面倒であったため、それをいくらか簡略化して
 一条鞭法という課税方式が策定された。これは、人頭税や種種の役、土地税な
 どを一括して銀納するという内容で、明の万暦帝の時代に全国で実施されるよ
 うになった。清はこの一条鞭法を引継ぎ、地租として「地銀」を、人頭税とし
 て「丁銀」を徴収していた。しかし、1711年の人口調査を最後に以降人口調査
 を行わず、以降増加した成年男子は盛世滋生人丁といわれ、増加分には丁銀を
 課税しなかった。また、1717年には地丁銀制という形で丁銀を地銀に繰り入れ
 、人頭税を実質廃止し税は銀納とした。当初は一部の地域での実施であったが
 、雍正帝時代にこれが全国で実施され、中国で長い間続いた人頭税は姿を消す
 こととなった。
 
  明清の時代には社会が大きく変化し、郷紳と呼ばれる地方有力者があらわれ
 た。郷紳は大地主や大商人、官僚をかねており、地方社会の指導勢力として地
 域を牛耳っていた。また、大商人や地主は都市へ移住したため、不在地主(城
 居地主)として農村を支配し、都市の発展が促進された。
 
  大規模地主が勢力を強めている中で、中小規模の地主や自作農、手工業者な
 どは税負担や小作料など重い負担を背負い困窮していた。そのようななかで、
 佃戸を中心として抗租運動という抵抗が相次いだ。また、雑徭に反対する抗糧
 運動も行われ、特に清朝では深刻な社会問題に発展した。こうした運動の背景
 には貧困があり、その打開するために国禁を犯して国外へ逃亡する人々が後を
 絶たなかった。南洋華僑などはその一例である。
 
 
 
 *************************************************************
 2カッコ抜き
 
 清の統治制度
 
  清は、現在の中国とほぼ同じ広大な版図を有していた。巨大な領土を維持す
 るため、中国内地と満州地方、台湾を直轄地として治める一方、内外モンゴル
 や青海、回部、チベットでは各民族の自治を許す間接統治を行った。その統括
 のための機関としてホンタイジの時代に( 1 )が設置され、乾隆帝の時代
 にその制度がさらに整備された。さらに、真の周辺にあった朝鮮やベトナム、
 シャム(現在のタイ)、ビルマ、ネパールなどは朝貢国として位置づけられ、
 清が宗主権を持っていた。
 
  清は、30万人という少数の満州族で数億の人民を擁する定刻を支配するため
 、明の官制をほぼ継承する一方、重要ポストには漢人と満州人を1人ずつおく
 ( 2 )制を採用した。これにより、これによって漢人官僚や知識人の協力
 を得つつ、満州人が実権を掌握するということが可能になった。また、雍正帝
 時代、( 3 )が軍事行政の最高機関として臨時設置されたが後に常設機関
 化し、もともとの官制に取って代わった。軍事制度の八旗には、満州八旗、漢
 人八旗、蒙古八旗の3種類の八旗があり、構成員は世襲であった。また、八旗
 の補強として漢人の募集兵部隊である( 4 )が設立され、警察活動などを
 行っていた。
 
  征服王朝である清に対しては漢民族による反清復明運動が展開されたが、清
 はこれに対して厳格な取り締まりを行った。( 5 )令を出して満州の風俗
 である( 5 )を強制したり、禁書令などの思想統制を徹底して文字の獄と
 いった事件も起こした。その一方、朱子学の官学化や科挙の実施など中国の伝
 統を尊重し、大編纂事業に代表される協力的知識人の厚遇をするなど、懐柔を
 図った。
 
  対外関係は、明末には私貿易が流行してヨーロッパ人が来航するなどかなり
 貿易活動が盛んに行われており、清も初めのうちはかなり自由な貿易が行われ
 ていた。しかし、1757年に乾隆帝が海外貿易を広州一港に限定し、貿易取扱も
 公行とよばれる特許商人組合による独占する厳しい制限をかけた。
 
 
 明清の社会
 
  明清の時代、中国は着実な社会発展を遂げ、18世紀半ばには人口は2億人に
 達した。しかし、急激な人口の伸びは農業生産の伸びを越えたために養いきれ
 ない余剰人口が発生し、一部では貧困化が問題となった。そうしたなか、長江
 中流域から広東省や広西省雲南省の方面へ人口が拡散するとともに、台湾やモ
 ンゴル高原、東トルキスタンや満州など周辺地域にもあふれ出した。さらに、
 国禁をおかして海外へ移住する人々も増え、東南アジアなどへの南洋華僑が進
 出した。
 
  このころ、江南地域は農工商業の中枢となり、文化の中心発信地となってい
 た。農業分野では長江中流域の湖北・湖南省(湖広)が穀倉地帯として台頭し
 て武漢が集散地となっていたし、長江下流域では桑や綿花などの商品作物の栽
 培が盛んになっていた。商品作物は農家の副業として発展し、綿織物や絹織物
 といった手工業も発展した。綿織物は松江、絹織物は蘇州や杭州、上海が中心
 生産地とであった。また、このような産品が集まる都市が繁栄し、南京や杭州
 、上海などは商業都市としても繁栄した。
 
  明清の時代になると、長江付近に集まる各種物資を他地域へ流通するために
 商業が発展し、全国規模で活動する大商人が現れた。明に時代に塩の専売を委
 託されていた( 6 )商人や、長城に物資を供給することを任されていた山
 西商人などである。これらの商人は主要都市に同郷者や同業者の拠点を設置し
 ていた。これが会館や公所と呼ばれる施設で、次第に機能を拡張していった。
 
  海外との貿易は厳しい海禁政策もあって明代にはあまり発展しなかったが、
 清代の16世紀以降は発展した。中国からは絹や茶、陶磁器、木綿が輸出され、
 その対価として銀を得るというのが主な貿易の形で、初めはポルトガルがマカ
 オ経由で日本銀を、続いてスペインがマニラ、太平洋経由で( 7 )銀を、
 そして最後はオランダが台湾経由で日本銀を、それぞれ中国に持ち込んだ。ポ
 ルトガルとオランダは従来の日中貿易に割り込んだ形であったが、スペインは
 自国植民地のメキシコで産出される銀を利用した貿易を行っていた。スペイン
 が行った貿易を特にアカプルコ貿易という。
 
  15世紀末からの外国貿易による銀の大量流入は次第に中国の社会制度を変革
 していった。明の初めには貨幣として銅銭の他、紙幣(宝鈔)も使用されてい
 たが、元末の紙幣乱発によって紙幣の信用は低下していた。そうしたこともあ
 って、明の末には各地各階層で大規模取引には銀が用いられるようになり、通
 貨の主役として機能するようになった。
 
   このような経済の変化とともに、税制も改革された。唐の後期からの両税法
 はその仕組みが煩雑で、徴税も面倒であったため、それをいくらか簡略化し
 て( 8 )という課税方式が策定された。これは、人頭税や種種の役、土地
 税などを一括して銀納するという内容で、明の万暦帝の時代に全国で実施され
 るようになった。清はこの一条鞭法を引継ぎ、地租として「( 9 )」を、
 人頭税として「( 10 )」を徴収していた。しかし、1711年の人口調査を最
 後に以降人口調査を行わず、以降増加した成年男子は盛世滋生人丁といわれ、
 増加分には丁銀を課税しなかった。また、1717年には( 11 )制という形で
 丁銀を地銀に繰り入れ、人頭税を実質廃止し税は銀納とした。当初は一部の地
 域での実施であったが、雍正帝時代にこれが全国で実施され、中国で長い間続
 いた人頭税は姿を消すこととなった。
 
  明清の時代には社会が大きく変化し、郷紳と呼ばれる地方有力者があらわれ
 た。郷紳は大地主や大商人、官僚をかねており、地方社会の指導勢力として地
 域を牛耳っていた。また、大商人や地主は都市へ移住したため、不在地主(城
 居地主)として農村を支配し、都市の発展が促進された。
 
  大規模地主が勢力を強めている中で、中小規模の地主や自作農、手工業者な
 どは税負担や小作料など重い負担を背負い困窮していた。そのようななかで、
 佃戸を中心として( 12 )運動という抵抗が相次いだ。また、雑徭に反対す
 る抗糧運動も行われ、特に清朝では深刻な社会問題に発展した。こうした運動
 の背景には貧困があり、その打開するために国禁を犯して国外へ逃亡する人々
 が後を絶たなかった。南洋華僑などはその一例である。
 
 
 
 解答
 1:理藩院   2:満漢併用   3:軍機処   4:緑営
 5:弁髪   6:新安   7:メキシコ   8:一条鞭法
 9:地銀   10:丁銀   11:地丁銀   12:抗租
 
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 3一問一答
 
 1:明の時代、長城への物資補給を任された政商は何商人か
 2:明の時代以後、海外に移住した中国人を何というか
 
 
 解答
 1:山西商人
 2:華僑
 
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