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 世界史猛特訓  第 77 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 北虜南倭
 
  永楽帝の死後、明は消極外交政策を採用して海禁政策に終始した。しかし、
 周辺地域からの圧力も強まり、北虜南倭として明を苦しめた。
 
  北虜とは、勢力を回復したモンゴル人のことである。15世紀、エセン=ハン
 の下でモンゴル高原西部のオイラート部が強大化し、明に侵攻した。この侵攻
 は土木の変とよばれ、鎮圧に向かった正統帝らが逆に捕虜となった。続いて16
 世紀、ダヤン=ハンの下でモンゴル高原東部の韃靼(タタール)部が拡大し、
 アルタン=ハンの登場で再び明は侵攻される。この侵攻は庚申の変とよばれ、
 北京が包囲されるなど明が受けた傷は大きかった。こうした北からの侵攻に対
 して明は万里の長城を改築して対抗したが、長城に常駐させた膨大な兵力を維
 持するには多額の財政負担が必要で、次第に明の財政を弱らせていった。
 
  南倭とは、東南海岸地域での日本人や中国人の海賊行為、和冦のことであ
 る。倭寇はその出現時期によって前期倭寇と後期倭寇とに分かれ、前者が日本
 人中心なのに対して後者は中国人が中心である。元末から猛威を振るった前期
 和冦は室町幕府の取り締まりや勘合貿易の開始で沈静化した。16世紀半ばから
 増加した後期和冦は明の海禁政策を揺さぶり、取り締まりが財政的に負担と
 なったため、ここでも明は苦しんだ。
 
 
 明の中興から滅亡
 
  永楽帝の死後あまり国情が芳しくなかった明も、16世紀終わりごろ、神宗万
 暦帝時代の初期には勢力をもりかえした。当時の宰相であった張居正がよく皇
 帝を補佐して財政改革を行い、ある程度の成功を収めたからである。張居正は
 両税法による煩雑な税制を是正して一条鞭法を導入し、課税対象を土地税と人
 頭税に限った上でそれらを一本化して銀納させるなど税制を簡素化した。税制
 の簡素化に伴う官吏の整理で収入を抑制する一方、土地調査や治水事業を行う
 ことで収入の増加を図り、財政再建に努めた。
 
  しかし、万暦帝の時代なると異民族侵入が深刻化し、1592年にイスラム教徒
 が起こした寧夏の乱や、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(壬辰の倭乱)と慶長の役
 (丁酉の倭乱))に対する挑戦への援軍派遣、後金の討伐の失敗、その他の異
 民族対策や倭寇対策などが、財政に打撃を与えた。
 
  国内でも、政治の実権を宦官が掌握して横暴を働くなどの制度疲労が露呈し
 た。こうした状況下、顧憲成ら東林書院出身の官僚グループの東林党と宦官や
 反東林の官僚グループである非東林党の2派閥が争う党争が展開され、内部闘
 争の結果官界は混乱を極めた。国力の衰えた明にあって、内紛の継続はますま
 す自身の国力をそぐこととなった。1644年、陜西省で起こった李自成の乱が北
 京に迫ったが、もはや明はこれを鎮圧する力を持たず、反乱軍が北京に入城し
 て明は滅ぼされた。
 
 
 清の発展
 
  ヌルハチが女真族を統一して建国した後金は、サルフの戦いで明を撃破する
 と、遷都を繰り返しながら勢力を拡大していった。ヌルハチは軍事・行政の単
 位として八旗制を導入して支配を固めるとともに、満州文字を制定するなど民
 族の統一につとめた。
 
  ヌルハチの跡を継いだ太宗ホンタイジは、チャハル部(内モンゴル)を併合
 し、その際に元の玉璽を入手してモンゴルへの影響力も持った。また、国号を
 清と改称し、民族名を満州族と改めた。また、李氏朝鮮に遠征してこれを服属
 させて後方の安全を固め、松山の戦いで長城以北を領有して中国本土へと迫っ
 た。この後、明が滅亡するまでの間は山海関での清明両軍によるにらみ合いが
 続いた。
 
  3代皇帝の順治帝は、明の降将である呉三桂らの手引きによって北京入城を
 果たした。以後、明の降将らに先導役として中国全土を制圧する。ただし、初
 期の順治帝は幼かったので、ホンタイジの兄弟であるドルゴンが補佐役として
 順治帝を助けていた。中国統一に向けての征服活動のなか、各地で頻発する抗
 清復明運動が親を悩ませたため、弁髪令を発布して従わない者を全て反清勢力
 とみなして徹底排除した。
 
  4代皇帝の聖祖康煕帝は、中国本土の支配を完成した。即位した1661年に江
 南を平定し、翌1662年には国内の残明勢力最後の旗印であった唐王を捕縛して
 復明勢力を一掃した。当時、明の降将には、清の中国進出時の手柄によって、
 呉三桂が雲南省で、尚可喜が広東省で、耿継茂が福建省で、それぞれ藩王とし
 て自治を行っていた。しかし、清の統一政策の進展とともに三藩はやがて粛清
 を恐れるようになり、1673年から三藩の乱を起こした。康煕帝はこれを鎮圧
 し、中国全土の支配を完成した。また、台湾で抵抗運動を続けた鄭一族も鎮定
 された。
 
  康煕帝は国内統一を終えた後、対外発展に力を注いだ。まず、ネルチンスク
 条約を結んでロシアとの国境を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)に定めてロシア
 の南下を阻止し、ジュンガル部平定のために3回の親征を行った。その結果、
 1697年にはハルハ部を統合することに成功した。
 
  5代皇帝の世宗雍正帝は内政の充実に努めた。軍機処を設置し、皇帝独裁制
 の確立をはかった。また、外征ではジュンガル部討伐を康煕帝に引き続いて行
 い、チベット(蔵部)や青海の併合を行い、さらにキャフタ条約で外モンゴル
 とロシア、シベリアの国境を策定した。
 
  6代皇帝の乾隆帝はジュンガル部の平定が完成、イリ地方を併合し、天山方
 面の回部(東トルキスタン地方)を平定した。また、乾隆帝は外国貿易を広州
 一港に限定し、鎖国的政策を行った。
 
  7代皇帝の仁宗嘉慶帝は1795年に即位したが、白蓮教徒の乱などがあり、以
 降清は衰退していく。辛亥革命による清の滅亡は、20世紀初頭の1912年のこと
 である。
 
 
 *************************************************************
 2カッコ抜き
 
 北虜南倭
 
  永楽帝の死後、明は消極外交政策を採用して海禁政策に終始した。しかし、
 周辺地域からの圧力も強まり、北虜南倭として明を苦しめた。
 
  北虜とは、勢力を回復したモンゴル人のことである。15世紀、エセン=ハン
 の下でモンゴル高原西部の( 1 )部が強大化し、明に侵攻した。この侵攻
 は( 2 )の変とよばれ、鎮圧に向かった正統帝らが逆に捕虜となった。続
 いて16世紀、ダヤン=ハンの下でモンゴル高原東部の( 3 )部が拡大し、
 アルタン=ハンの登場で再び明は侵攻される。この侵攻は庚申の変とよばれ、
 北京が包囲されるなど明が受けた傷は大きかった。こうした北からの侵攻に対
 して明は万里の長城を改築して対抗したが、長城に常駐させた膨大な兵力を維
 持するには多額の財政負担が必要で、次第に明の財政を弱らせていった。
 
  南倭とは、東南海岸地域での日本人や中国人の海賊行為、( 4 )のこと
 である。倭寇はその出現時期によって前期倭寇と後期倭寇とに分かれ、前者が
 日本人中心なのに対して後者は中国人が中心である。元末から猛威を振るった
 前期和冦は室町幕府の取り締まりや勘合貿易の開始で沈静化した。16世紀半ば
 から増加した後期和冦は明の海禁政策を揺さぶり、取り締まりが財政的に負担
 となったため、ここでも明は苦しんだ。
 
 
 明の中興から滅亡
 
  永楽帝の死後あまり国情が芳しくなかった明も、16世紀終わりごろ、神宗万
 暦帝時代の初期には勢力をもりかえした。当時の宰相であった( 5 )がよ
 く皇帝を補佐して財政改革を行い、ある程度の成功を収めたからである。張居
 正は両税法による煩雑な税制を是正して( 6 )を導入し、課税対象を土地
 税と人頭税に限った上でそれらを一本化して銀納させるなど税制を簡素化し
 た。税制の簡素化に伴う官吏の整理で収入を抑制する一方、土地調査や治水事
 業を行うことで収入の増加を図り、財政再建に努めた。
 
  しかし、万暦帝の時代なると異民族侵入が深刻化し、1592年にイスラム教徒
 が起こした寧夏の乱や、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役(壬辰の倭乱)と慶長の役
 (丁酉の倭乱))に対する挑戦への援軍派遣、後金の討伐の失敗、その他の異
 民族対策や倭寇対策などが、財政に打撃を与えた。
 
  国内でも、政治の実権を( 7 )が掌握して横暴を働くなどの制度疲労が
 露呈した。こうした状況下、顧憲成ら東林書院出身の官僚グループの東林党と
 宦官や反東林の官僚グループである非東林党の2派閥が争う党争が展開され、
 内部闘争の結果官界は混乱を極めた。国力の衰えた明にあって、内紛の継続は
 ますます自身の国力をそぐこととなった。1644年、陜西省で起こった( 8 )
 の乱が北京に迫ったが、もはや明はこれを鎮圧する力を持たず、反乱軍が北京
 に入城して明は滅ぼされた。
 
 
 清の発展
 
  ( 9 )が女真族を統一して建国した後金は、サルフの戦いで明を撃破す
 ると、遷都を繰り返しながら勢力を拡大していった。ヌルハチは軍事・行政の
 単位として( 10 )制を導入して支配を固めるとともに、満州文字を制定す
 るなど民族の統一につとめた。
 
  ヌルハチの跡を継いだ太宗( 11 )は、チャハル部(内モンゴル)を併合
 し、その際に元の玉璽を入手してモンゴルへの影響力も持った。また、国号を
 清と改称し、民族名を満州族と改めた。また、李氏朝鮮に遠征してこれを服属
 させて後方の安全を固め、松山の戦いで長城以北を領有して中国本土へと迫っ
 た。この後、明が滅亡するまでの間は山海関での清明両軍によるにらみ合いが
 続いた。
 
  3代皇帝の( 12 )帝は、明の降将である( 13 )らの手引きによって
 北京入城を果たした。以後、明の降将らに先導役として中国全土を制圧する。
 ただし、初期の順治帝は幼かったので、ホンタイジの兄弟であるドルゴンが補
 佐役として順治帝を助けていた。中国統一に向けての征服活動のなか、各地で
 頻発する抗清復明運動が親を悩ませたため、弁髪令を発布して従わない者を全
 て反清勢力とみなして徹底排除した。
 
  4代皇帝の聖祖( 14 )帝は、中国本土の支配を完成した。即位した1661
 年に江南を平定し、翌1662年には国内の残明勢力最後の旗印であった唐王を捕
 縛して復明勢力を一掃した。当時、明の降将には、清の中国進出時の手柄に
 よって、呉三桂が雲南省で、尚可喜が広東省で、耿継茂が福建省で、それぞれ
 藩王として自治を行っていた。しかし、清の統一政策の進展とともに三藩はや
 がて粛清を恐れるようになり、1673年から( 15 )を起こした。康煕帝はこ
 れを鎮圧し、中国全土の支配を完成した。また、台湾で抵抗運動を続けた鄭一
 族も鎮定された。
 
  康煕帝は国内統一を終えた後、対外発展に力を注いだ。まず、( 16 )条
 約を結んでロシアとの国境を外興安嶺(スタノヴォイ山脈)に定めてロシアの
 南下を阻止し、( 17 )部平定のために3回の親征を行った。その結果、1697
 年にはハルハ部を統合することに成功した。
 
  5代皇帝の世宗( 18 )帝は内政の充実に努めた。軍機処を設置し、皇帝
 独裁制の確立をはかった。また、外征ではジュンガル部討伐を康煕帝に引き続
 いて行い、チベット(蔵部)や青海の併合を行い、さらに( 19 )条約で外
 モンゴルとロシア、シベリアの国境を策定した。
 
  6代皇帝の( 20 )帝はジュンガル部の平定が完成、イリ地方を併合し、
 天山方面の回部(東トルキスタン地方)を平定した。また、乾隆帝は外国貿易
 を広州一港に限定し、鎖国的政策を行った。
 
  7代皇帝の仁宗嘉慶帝は1795年に即位したが、( 21 )の乱などがあり、
 以降清は衰退していく。辛亥革命による清の滅亡は、20世紀初頭の1912年のこ
 とである。
 
 
 
 解答
 1:オイラート   2:土木   3:韃靼(タタール)   4:和冦
 5:張居正   6:一条鞭法   7:宦官   8:李自成
 9:ヌルハチ   10:八旗   11:ホンタイジ   12:順治
 13:呉三桂   14:康煕   15:三藩の乱   16:ネルチンスク
 17:ジュンガル   18:雍正   19:キャフタ   20:乾隆
 21:白蓮教徒
 
 
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 3一問一答
 1:一条鞭法施行前の、中国の伝統的な課税法を何というか。
 2:明の衰退の原因となった外部勢力を総称して何というか
 3:チャハル部が清の支配下となったのは何帝の時か
 4:台湾で反清運動を展開した一族は何か
 5:ネルチンスク条約で国境となった山脈は何か
 6:ネルチンスク条約を結んだロシア側の皇帝は誰か
 7:青海を清に併合した時の清の皇帝は誰か
 
 
 解答
 1:両税法
 2:北虜南倭
 3:ホンタイジ
 4:鄭
 5:外興安嶺(スタノヴォイ山脈)
 6:ピョートル1世
 7:雍正帝
 
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