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世界史猛特訓 第 68 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
王政復古と名誉革命
1660年、復活した長老派がチャールズ2世を亡命先のフランスから招いて即
位させた。この際にブレダ宣言を発布し、革命関係者への大赦や信仰の自由、
土地所有権の承認などを認めさせた。しかし、チャールズ2世はフランス的絶
対主義を目指し、議会とは方向性を異にした。
こうして、チャールズ2世は絶対主義の再建を企図した政策をとりはじめ、
ルイ14世とのドーヴァーの密約による旧教保護策の採用などを行った。このよ
うな政策に対して議会も対抗策をとり、1673年には審査法を制定して公職就任
をイギリス国教徒に限定したり、1679年には人身保護法を制定して不当逮捕や
投獄を禁止した。
さらに、1670年代にチャールズ2世の弟ジェームズへの王位継承問題の際に
議会内に賛成派と反対派の対立が生まれ、これが議会内の政党の起源となっ
た。消極的ながらも国王大権と国教会を尊重してジェームズの即位に賛成した
トーリー党と、議会主権と王権の制限を訴えて反対したウィッグ(ホイッグ)
党がそれである。トーリーは主に貴族や地主が、ウィッグは主に中産階級に支
持基盤を持っていた。
トーリーとウィッグの対立を経て1689年にジェームズ2世が即位すると、彼
はまた旧教を支持し絶対主義化を志向した。議会もこれには困惑し、議会両会
派の協力で王の娘で新教徒のメアリと、その夫であるオランダ総督オレンジ公
ウィリアムを招いた。そして、ウィリアムは軍隊とともにイギリスに上陸し、
ジェームズ2世はフランスへ亡命した。この時は無血の革命が成功し、名誉革
命が成った。さらに、翌1689年に王は議会が提出した権利章典を承認し、発布
した。これには、王の専制を予防する議会の権利や、生命、財産、言論の自由
など市民的権利を保障するという内容がもられていた。そして、2人はウィリ
アム3世、メアリ2世として即位し、王と議会による共同統治としての立憲政
治が確立した。
ピューリタン革命と名誉革命を通じて、議会の権利や市民的自由の原則が確
立した。封建的諸制度も後退し、後の資本主義発展にも好影響を与えた。ま
た、中産階級の地位向上もみられた。
議会政治と政党内閣
メアリ2世とウィリアム3世の時代には、トーリーとウィッグの両党が連立
内閣を組織して政治を行った。そして、1694年になると議会の多数派による内
閣が組織されるようになった。この頃の内閣は依然として王の行政の補佐官的
な地位であったが、1702年にウィリアム3世の後を継いだアン女王の時代、内
閣権限は強化された。
アン女王の後は王位継承者が絶えてしまったため、1714年にドイツのハノー
ヴァー選帝侯ゲオルグが即位した。しかし、ゲオルグは英語がわからず、イギ
リスにはほとんどいなかったために、大臣に政務を全面委任していた。1721
年、ウィッグ党のウォルポール内閣が成立し、この頃「王は君臨すれども統治
せず」というイギリス政治の原則が確立した。さらに、1742年に選挙でウィッ
グ党が敗北するとウォルポールは内閣の総辞職を行い、内閣が議会に対して責
任を持つ責任内閣制(議院内閣制)が確立した。
このように、一方で民主的であったイギリス議会も、実際には有力ジェント
リに支配されていた。さらに、選挙権も土地財産の所有者であるジェントリの
みに制限されていた。こうした状況が打破されるのは、産業革命後の選挙法改
正を待たねばならなかった。
1707年、イギリスはスコットランドを併合し、大ブリテン王国が成立した。
そして、1714年にアン女王の死去によってステュワート朝が断絶すると、ハ
ノーヴァー朝(1914年にウィンザー朝と改称)が成立してジョージ1世が即位
した。この時期、議会政治の発展と同時に、全世界的な経済的覇権の掌握と海
外進出が進んだ。特に海外進出では商工業ブルジョワや商工業にも投資してい
る地主らの利害が一致し、フランスと対外植民地抗争が争われた。
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2カッコ抜き
王政復古と名誉革命
1660年、復活した長老派が( 1 )を亡命先のフランスから招いて即位さ
せた。この際にブレダ宣言を発布し、革命関係者への大赦や信仰の自由、土地
所有権の承認などを認めさせた。しかし、( 1 )はフランス的絶対主義を
目指し、議会とは方向性を異にした。
こうして、( 1 )は絶対主義の再建を企図した政策をとりはじめ、ルイ
14世とのドーヴァーの密約による旧教保護策の採用などを行った。このような
政策に対して議会も対抗策をとり、1673年には( 2 )法を制定して公職就
任をイギリス国教徒に限定したり、1679年には( 3 )法を制定して不当逮
捕や投獄を禁止した。
さらに、1670年代にチャールズ2世の弟ジェームズへの王位継承問題の際に
議会内に賛成派と反対派の対立が生まれ、これが議会内の政党の起源となっ
た。消極的ながらも国王大権と国教会を尊重してジェームズの即位に賛成した
( 4 )党と、議会主権と王権の制限を訴えて反対したウィッグ(ホイッ
グ)党がそれである。( 4 )は主に貴族や地主が、ウィッグは主に中産階
級に支持基盤を持っていた。
トーリーとウィッグの対立を経て1689年にジェームズ2世が即位すると、彼
はまた旧教を支持し絶対主義化を志向した。議会もこれには困惑し、議会両会
派の協力で王の娘で新教徒のメアリと、その夫であるオランダ総督( 5 )
を招いた。そして、( 5 )は軍隊とともにイギリスに上陸し、ジェームズ
2世はフランスへ亡命した。この時は無血の革命が成功し、( 6 )が成っ
た。さらに、翌1689年に王は議会が提出した( 7 )を承認し、発布した。
これには、王の専制を予防する議会の権利や、生命、財産、言論の自由など市
民的権利を保障するという内容がもられていた。そして、2人はウィリアム
3世、メアリ2世として即位し、王と議会による共同統治としての立憲政治が
確立した。
ピューリタン革命と名誉革命を通じて、議会の権利や市民的自由の原則が確
立した。封建的諸制度も後退し、後の資本主義発展にも好影響を与えた。ま
た、中産階級の地位向上もみられた。
議会政治と政党内閣
メアリ2世とウィリアム3世の時代には、トーリーとウィッグの両党が連立
内閣を組織して政治を行った。そして、1694年になると議会の多数派による内
閣が組織されるようになった。この頃の内閣は依然として王の行政の補佐官的
な地位であったが、1702年にウィリアム3世の後を継いだアン女王の時代、内
閣権限は強化された。
アン女王の後は王位継承者が絶えてしまったため、1714年にドイツのハノー
ヴァー選帝侯ゲオルグが即位した。しかし、ゲオルグは英語がわからず、イギ
リスにはほとんどいなかったために、大臣に政務を全面委任していた。1721
年、ウィッグ党の( 8 )内閣が成立し、この頃「王は君臨すれども統治せ
ず」というイギリス政治の原則が確立した。さらに、1742年に選挙でウィッグ
党が敗北するとウォルポールは内閣の総辞職を行い、内閣が議会に対して責任
を持つ責任内閣制(議院内閣制)が確立した。
このように、一方で民主的であったイギリス議会も、実際には有力ジェント
リに支配されていた。さらに、選挙権も土地財産の所有者であるジェントリの
みに制限されていた。こうした状況が打破されるのは、産業革命後の選挙法改
正を待たねばならなかった。
1707年、イギリスはスコットランドを併合し、大ブリテン王国が成立した。
そして、1714年にアン女王の死去によって( 9 )朝が断絶すると、
( 10 )朝(1914年にウィンザー朝と改称)が成立してジョージ1世が即位
した。この時期、議会政治の発展と同時に、全世界的な経済的覇権の掌握と海
外進出が進んだ。特に海外進出では商工業ブルジョワや商工業にも投資してい
る地主らの利害が一致し、フランスと対外植民地抗争が争われた。
解答
1:チャールズ2世 2:審査 3:人身保護 4:トーリー
5:(オレンジ公)ウィリアム 6:名誉革命 7:権利章典
8:ウォルポール 9:ステュワート 10:ハノーヴァー
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3一問一答
1:イギリス議会でトーリー党と相対した政党は何か
解答
1:ウィッグ党(ホイッグ党)
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