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世界史猛特訓 第 66 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
オーストリア
オーストリアは、1156年に神聖ローマ帝国に編入され、1278年にハプスブル
ク家のアルプレヒトが支配者となった。その後、ハプスブルク家のカール5世
はスペインやネーデルランドも支配下に入れ、1526年にはベーメンをも領有し
た。1683年、オスマン=トルコの第二次ウィーン包囲を撃破し、1699年のカル
ロヴィッツ条約でトルコからハンガリーを獲得した。
1740年、マリア=テレジアが即位するが、これをめぐってオーストリア継承
戦争が起こった。その後、マリア=テレジアはプロイセンに対抗し、啓蒙専制
君主として中央集権化と近代化を推進した。マリア=テレジアの子ヨーゼフ
2世も、啓蒙専制君主としての政策を推進し、宗教寛容や教育の充実などを通
じて、国家の近代化を図った。しかし、市民階級の未発達であったことや、封
建貴族の強い影響力が残存していたことから、封建勢力が既得権の喪失に強く
抵抗し、貴族への課税や農奴解放には失敗した。
啓蒙専制君主制は、18世紀後半の経済的後進国特有の政治体制であった。こ
れらの国では市民階級が未発達で経済的にも貧しく、根強い封建勢力が幅広い
既得権を保持して国家の近代化を妨げていた。そこで、君主自らが啓蒙主義を
となえ、経済社会を上から改革して近代化の推進を目指す政策がとられた。具
体的には、有力貴族の勢力を排除し、中小の貴族を官僚や軍人として支配体制
に組み入れることで、富国強兵と中央集権を図った。しかし、こうした動きに
対しては既得権を持っていた階層が抵抗をしめした。さらに、集権化と近代化
を進めるとはいえ、市民的自由は抑圧される傾向にあったから、啓蒙主義は絶
対主義確立の名目にすぎず、市民階級の発達はあまり伴わなかった。
ロシア
ロシアは、キプチャク=ハン国の下でモスクワ大公国という形で存在してい
たが、イヴァン3世の時代にキプチャク=ハン国から自立し、北東ロシアを統
一した。雷帝と呼ばれたイヴァン4世は、ツァーリの称号を皇帝の称号として
正式採用し、貴族勢力を押さえて教会を支配下に置くなど、専制政治を確立し
た。さらに皇帝が正教会の首長を兼務するようになり、ロシア正教会が成立し
た。コサックの首領であったイェルマーク寄進した領土を合併するなど、シベ
リアへの進出も開始し、ロシアの領土はいっそう拡大した。この寄進によって
コサックは皇帝から自治を認められたが、異民族を征服する際に最前線を形成
する役を同時に負った。
コサックは、ロシアで農奴支配が強化された際に支配を嫌っ農民が逃亡し、
流民化した農民が辺境で共同体を形成したところに起源を発する。ロシアにお
いては、コサックが領土拡張に重要な役割を果たした。
その後リューリク朝は断絶し、ロシアは混乱状態に陥った。1613年、ミハイ
ル=ロマノフが即位して国内の混乱を収拾し、ロマノフ朝が成立した。ロマノ
フ朝は20世紀初頭のロシア革命までロシアを統治した。
ロマノフ朝は、ツァーリズム(専制君主制)を推し進め、大領主をつぶして
中小貴族を登用する政策をとった。また、中小貴族の収入源である農奴制を強
化し、領主の経済的基盤を確保した。そのための手段として、1649年には農奴
法を制定して農民の自由移動を禁止した。1670年、これに反発した南ロシアの
農奴がステンカ=ラージンの乱を起こした。
対外的な発展では1700年ごろに太平洋に到達するなど、シベリア方面の領土
を拡張していった。シベリア進出により、先住民から毛皮がもたらされた。ロ
シアは先住民族から毛皮を購入して、ヨーロッパロシアで服や帽子に加工した
後、ヨーロッパへと輸出して外貨を獲得していた。産業基盤が弱かった当時の
ロシアにとって、これらは重要な輸出商品であった。
1682年に即位したピョートル1世(大帝)は自ら西欧を視察してロシアの後
進性を痛感し、啓蒙君主として西欧をモデルとした国内改革を行った。改革の
内容は官僚機構の整備、官営工場設立による産業振興、そして軍備拡張といっ
たものであった。これにより、ロシアの国力は充実した。対外的には、シベリ
ア開発と並行してシベリアからの南下をはじめ、清の康煕帝との間でネルチン
スク条約を結んで国境策定と通商を取り決めた。この時国境となったのが外興
安嶺(スタノヴォイ山脈)であり、現在のロシア・中国間の国境からはだいぶ
北方にあたる。南方ではオスマン=トルコを圧迫し、アゾフ海への進出に成功
した。また、西欧がスペイン継承戦争に注目している機に乗じ、1700年から
1721年までの間バルト海の支配権をめぐってスェーデンと北方戦争を戦った。
また、この戦争中1703年にはサンクト=ペテルブルクの建設を開始し、戦争も
終わらない1712年には都をペテルブルクに遷した。1721年、ニスタット条約に
よって北方戦争でのロシアの勝利が確定した。ロシアはバルト海沿岸にも領土
を獲得したため、北欧地域でスェーデンは没落し、ロシアが台頭した。
1762年に位に就いたエカチェリーナ2世は西欧の事情に明るく、当初はロシ
アの発展を目指して啓蒙専制君主としての統治を行った。しかし、1773年にお
こったプガチョフの乱や、1789年からのフランス革命など国内外で支配体制に
対する脅威が増したため、反動的に農奴制を強化して貴族・大事主の利権を擁
護するようになった。この結果、中央集権化は進んだものの、農奴制はかえっ
て強化された。
対外発展の分野では、シベリアから太平洋へと抜け、アラスカ・千島列島に
まで到達した。1792年にはラクスマンを日本に派遣し、通商を求めたものの鎖
国中の日本に拒否された。また、南方の進出ではクリム=ハン国を滅ぼしてク
リミア半島を獲得し、西方ではポーランド分割によって領土を拡大した。
ポーランド分割
ポーランドは、10世紀にポーランド王国として国家を形成し、カジミェシュ
の時代に全盛期を迎えた。その後、ドイツ騎士団の東方植民など外的脅威が増
したことからリトアニアと合併し、15世紀にはヤゲヴォ朝のもとで東欧最強の
国家となった。しかし、16世紀末になるとヤゲヴォ朝が断絶して有力貴族によ
る選挙王政へと移行し、次第に国力は衰退していった。さらに、18世紀にはい
ると貴族間の抗争が激化して国内情勢が混乱し、周辺諸国の介入を招いた。
1772年、ポーランドの国内混乱に乗じて、プロイセン・オーストリア・ロシ
アの3国は第1回ポーランド分割を行い、領土を侵食した。さらに、フランス
革命の混乱に乗じて1793年にロシアとプロイセンが第2回分割を行った。この
時には、ポーランドの愛国主義者コシューシコが義勇軍を組織してロシアに抵
抗したが、敗退した。さらに1795年、プロイセン・オーストリア・ロシアの
3国が第3回ポーランド分割を行い、これによってポーランドは滅亡した。そ
の後、ポーランドの人々は独立運動を展開して蜂起を繰り返すが、ロシアに
よってことごとく鎮圧された。ポーランドの再独立達成は、1919年に第一次世
界大戦の戦後処理のために結ばれたベルサイユ条約を待たねばならなかった。
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2カッコ抜き
オーストリア
オーストリアは、1156年に神聖ローマ帝国に編入され、1278年にハプスブル
ク家のアルプレヒトが支配者となった。その後、ハプスブルク家のカール5世
はスペインやネーデルランドも支配下に入れ、1526年にはベーメンをも領有し
た。1683年、オスマン=トルコの第二次ウィーン包囲を撃破し、1699年の
( 1 )条約でトルコからハンガリーを獲得した。
1740年、( 2 )が即位するが、これをめぐってオーストリア継承戦争が
起こった。その後、( 2 )はプロイセンに対抗し、啓蒙専制君主として中
央集権化と近代化を推進した。マリア=テレジアの子( 3 )も、啓蒙専制
君主としての政策を推進し、宗教寛容や教育の充実などを通じて、国家の近代
化を図った。しかし、市民階級の未発達であったことや、封建貴族の強い影響
力が残存していたことから、封建勢力が既得権の喪失に強く抵抗し、貴族への
課税や農奴解放には失敗した。
啓蒙専制君主制は、18世紀後半の経済的後進国特有の政治体制であった。こ
れらの国では市民階級が未発達で経済的にも貧しく、根強い封建勢力が幅広い
既得権を保持して国家の近代化を妨げていた。そこで、君主自らが啓蒙主義を
となえ、経済社会を上から改革して近代化の推進を目指す政策がとられた。具
体的には、有力貴族の勢力を排除し、中小の貴族を官僚や軍人として支配体制
に組み入れることで、富国強兵と中央集権を図った。しかし、こうした動きに
対しては既得権を持っていた階層が抵抗をしめした。さらに、集権化と近代化
を進めるとはいえ、市民的自由は抑圧される傾向にあったから、啓蒙主義は絶
対主義確立の名目にすぎず、市民階級の発達はあまり伴わなかった。
ロシア
ロシアは、キプチャク=ハン国の下でモスクワ大公国という形で存在してい
たが、( 4 )の時代にキプチャク=ハン国から自立し、北東ロシアを統一
した。雷帝と呼ばれたイヴァン4世は、( 5 )の称号を皇帝の称号として
正式採用し、貴族勢力を押さえて教会を支配下に置くなど、専制政治を確立し
た。さらに皇帝が正教会の首長を兼務するようになり、ロシア正教会が成立し
た。コサックの首領であったイェルマーク寄進した領土を合併するなど、シベ
リアへの進出も開始し、ロシアの領土はいっそう拡大した。この寄進によって
コサックは皇帝から自治を認められたが、異民族を征服する際に最前線を形成
する役を同時に負った。
コサックは、ロシアで農奴支配が強化された際に支配を嫌っ農民が逃亡し、
流民化した農民が辺境で共同体を形成したところに起源を発する。ロシアにお
いては、コサックが領土拡張に重要な役割を果たした。
その後リューリク朝は断絶し、ロシアは混乱状態に陥った。1613年、ミハイ
ル=( 6 )が即位して国内の混乱を収拾し、( 6 )朝が成立した。
( 6 )朝は20世紀初頭のロシア革命までロシアを統治した。
ロマノフ朝は、ツァーリズム(専制君主制)を推し進め、大領主をつぶして
中小貴族を登用する政策をとった。また、中小貴族の収入源である農奴制を強
化し、領主の経済的基盤を確保した。そのための手段として、1649年には農奴
法を制定して農民の自由移動を禁止した。1670年、これに反発した南ロシアの
農奴が( 7 )の乱を起こした。
対外的な発展では1700年ごろに太平洋に到達するなど、シベリア方面の領土
を拡張していった。シベリア進出により、先住民から毛皮がもたらされた。ロ
シアは先住民族から毛皮を購入して、ヨーロッパロシアで服や帽子に加工した
後、ヨーロッパへと輸出して外貨を獲得していた。産業基盤が弱かった当時の
ロシアにとって、これらは重要な輸出商品であった。
1682年に即位した( 8 )(大帝)は自ら西欧を視察してロシアの後進性
を痛感し、啓蒙君主として西欧をモデルとした国内改革を行った。改革の内容
は官僚機構の整備、官営工場設立による産業振興、そして軍備拡張といったも
のであった。これにより、ロシアの国力は充実した。対外的には、シベリア開
発と並行してシベリアからの南下をはじめ、清の( 9 )帝との間でネルチ
ンスク条約を結んで国境策定と通商を取り決めた。この時国境となったのが
( 10 )(スタノヴォイ山脈)であり、現在のロシア・中国間の国境からは
だいぶ北方にあたる。南方ではオスマン=トルコを圧迫し、アゾフ海への進出
に成功した。また、西欧がスペイン継承戦争に注目している機に乗じ、1700年
から1721年までの間バルト海の支配権をめぐってスェーデンと北方戦争を戦っ
た。また、この戦争中1703年にはサンクト=ペテルブルクの建設を開始し、戦
争も終わらない1712年には都をペテルブルクに遷した。1721年、ニスタット条
約によって北方戦争でのロシアの勝利が確定した。ロシアはバルト海沿岸にも
領土を獲得したため、北欧地域でスェーデンは没落し、ロシアが台頭した。
1762年に位に就いた( 11 )は西欧の事情に明るく、当初はロシアの発展
を目指して啓蒙専制君主としての統治を行った。しかし、1773年におこった
( 12 )や、1789年からのフランス革命など国内外で支配体制に対する脅威
が増したため、反動的に農奴制を強化して貴族・大事主の利権を擁護するよう
になった。この結果、中央集権化は進んだものの、農奴制はかえって強化され
た。
対外発展の分野では、シベリアから太平洋へと抜け、アラスカ・千島列島に
まで到達した。1792年には( 13 )を日本に派遣し、通商を求めたものの鎖
国中の日本に拒否された。また、南方の進出ではクリム=ハン国を滅ぼしてク
リミア半島を獲得し、西方ではポーランド分割によって領土を拡大した。
ポーランド分割
ポーランドは、10世紀にポーランド王国として国家を形成し、( 14 )の
時代に全盛期を迎えた。その後、ドイツ騎士団の東方植民など外的脅威が増し
たことからリトアニアと合併し、15世紀には( 15 )朝のもとで東欧最強の
国家となった。しかし、16世紀末になると( 15 )朝が断絶して有力貴族に
よる選挙王政へと移行し、次第に国力は衰退していった。さらに、18世紀には
いると貴族間の抗争が激化して国内情勢が混乱し、周辺諸国の介入を招いた。
1772年、ポーランドの国内混乱に乗じて、プロイセン・オーストリア・ロシ
アの3国は第1回ポーランド分割を行い、領土を侵食した。さらに、フランス
革命の混乱に乗じて1793年にロシアとプロイセンが第2回分割を行った。この
時には、ポーランドの愛国主義者( 16 )が義勇軍を組織してロシアに抵抗
したが、敗退した。さらに1795年、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国
が第3回ポーランド分割を行い、これによってポーランドは滅亡した。その
後、ポーランドの人々は独立運動を展開して蜂起を繰り返すが、ロシアによっ
てことごとく鎮圧された。ポーランドの再独立達成は、1919年に第一次世界大
戦の戦後処理のために結ばれた( 17 )条約を待たねばならなかった。
解答
1:カルロヴィッツ 2:マリア=テレジア 3:ヨーゼフ2世
4:イヴァン3世 5:ツァーリ 6:ロマノフ
7:ステンカ=ラージン 8:ピョートル1世 9:康煕
10:外興安嶺 11:エカチェリーナ2世 12:プガチョフの乱
13:ラクスマン 14:カジミェシュ 15:ヤゲヴォ
16:コシューシコ 17:ベルサイユ
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3一問一答
1:マリア=テレジアの即位をめぐって起こったのは何戦争か。
2:「1」の報復としてマリア=テレジアが起こした戦争は何か。
3:「ツァーリ」の称号を正式採用したロシア皇帝は誰か。
解答
1:オーストリア継承戦争
2:7年戦争
3:イヴァン4世
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