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 世界史猛特訓  第 65 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 三十年戦争
 
  神聖ローマ帝国では皇帝権が弱く、都市や領邦が割拠していたために分裂状
 態が続いた。1555年のアウグスブルクの和議以降も宗教的な対立は続き、ファ
 ルツ伯が中心となって新教連合を、バイエルン侯が中心となって旧教連盟を、
 それぞれ結成して新教派と旧教派の諸侯は対抗した。
 
  新旧両教徒の対立が続くなか、1618年、皇帝の旧教政策に反対してベーメン
 の新教徒が蜂起した。この背景には、ベーメンに住んでいたチェック人はかね
 てからドイツ人支配に反目していたこともある。この蜂起はドイツの宗教問題
 に火を付け、以後30年にわたるドイツ三十年戦争がはじまった。宗教戦争には
 周辺諸外国の介入によって複雑化するものが多かったが、ドイツの場合も周辺
 諸国の干渉によって紛争規模が拡大した。
 
  ベーメンでの事件直後から1623年にかけての時期、イギリスの支援を受けた
 ベーメンの新教徒と、皇帝兼オーストリア王であるフェルディナント2世が
 戦った。
 
  1623年から1630年にかけて、国外勢力の介入が強まった。デンマーク王のク
 リスチャン4世が新教派の立場で介入し、皇帝側は傭兵隊長ヴァレンシュタイ
 ンが軍を率いて戦った。イギリスとオランダはデンマークや新教徒派の諸侯を
 支援した。
 
  デンマーク敗退後の1630年から1635年にかけて、スウェーデン王グスタフ=
 アドルフが参戦した。スウェーデンは領土的野心も持っており、講和条約で西
 ポンメルンを獲得した。しかし、グスタフ=アドルフ自身はリュッツェンの戦
 いで戦死した。
 
  グスタフ=アドルフ戦死後の1635年から1648年にかけて、フランスが新教派
 について参戦した。フランスは国内ではカトリック政策を進めていたが、宿敵
 ハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に関しては新教側の立場をとっ
 た。この結果、フランス・オランダ・デンマークの3国とドイツ皇帝・スペイ
 ンとが戦った。
 
  三十年戦争を終結させた講和条約は、1648年に結ばれた。参戦国の代表がウ
 ェストファリア地方に集まって国際会議を行ったため、この条約はウェストフ
 ァリア条約とよばれる。しかし、この会議は長期に及ぶ緩慢なものであったた
 め、その間にも戦争は続いていた。
 
  ウェストファリア条約によってドイツの宗教紛争は解決したが、その内容は
 アウグスブルクの和議を再確認するにとどまた。ただし、領主が選択する宗派
 には、この時カルヴァン派が加わった。神聖ローマ帝国内については、各領
 邦・都市の主権を確認し、皇帝権は有名無実化した。これを境に領邦国家体制
 が確立し、ドイツの統一は更に遠のいた。また、各領邦内での集権化が進ん
 だ。
 
  フランスとスウェーデンは、ウェストファリア条約によってドイツから領土
 を獲得た。フランスはライン川沿岸地域(アルザス地方など)を獲得し、領土
 を東方へと拡大した。スウェーデンは西ポンメルン(北ドイツの白海沿岸)に
 領土を獲得した。スウェーデンはこの地域を50年間に渡って押さえ、バルト海
 の制海権を掌握した。その結果、ハンザ同盟は形骸化して勢力を失った。ま
 た、オランダとスイスの独立を国際社会が正式に承認した。
 
  三十年戦争中、主戦場となったドイツは荒廃し、経済・社会的に大打撃を
 被った。特に、ドイツ皇帝側の傭兵隊長であったヴァレンシュタインは通りが
 かりの村々で略奪の限りを尽くし、皇帝は自身の手で国力をそぎ落としてし
 まった。この戦争によってドイツの人口は激減し、戦後もスウェーデンによる
 バルト海の支配など、経済的に打撃をうけた。さらに、領邦国家体制が確立し
 てしまったために19世紀まで統一国家を形成できず、政治的にも他国に遅れを
 とった。
 
 
 プロイセン
 
  プロイセンはブランデンブルク選帝候国とドイツ騎士団領がもととなった領
 邦である。ホーエンツォレルン家が支配していたブランデンブルク選帝候国
 は、エルベ川以東のスラヴ人の侵入に備える地にあった。ドイツ騎士団領は、
 13世紀頃からのバルト海沿岸の植民活動で形成され、スラヴ人の攻撃に対する
 防衛線としても機能していた。ドイツ騎士団領は後にプロイセン公国となり、
 1618年、ブランデンブルク選帝候国と合併してブランデンブルク・プロイセン
 が成立した。
 
  1640年にプロイセン首長の座に着いたフリードリヒ=ヴィルヘルムは、官僚
 制を整えて常備軍を組織し、絶対主義への道を開いた。次のフリードリヒ1世
 は財政改革や常備軍の拡張などを行った。また、スペイン継承戦争で皇帝を援
 助した実績を評価され、1701年にプロイセンはプロイセン王国に昇格した。
 
  その次のフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は、有力貴族の抑圧し、ユンカー
 (在地の貴族)に国内支配の基盤をおいた。ユンカーは中世的には騎士階級
 で、官僚や軍隊の中心を担っていた。また、国内産業の発展を奨励し、7万に
 のぼる兵力を養成して軍事国家としての基礎を確立した。これは、当時のプロ
 イセンの勢力範囲と国力からすれば破格の軍事規模であった。
 
  そのあとを継いだのがフリードリヒ2世である。彼は啓蒙君主の代表的人物
 である。彼は、その著書「反マキャベリ論」の中で「君主は国家第一の下僕で
 ある」と称した。また、自らが造営したサン・スーシ宮殿にヴォルテールらを
 招くなど、最先端の思想との交流も行った。
 
  その頃、オーストリアではカール6世が実子に王位を継承させるために女性
 の王位継承を可能と定め、マリア=テレジアが王位を継承した。しかし、バイ
 エルン・ザクセン・スペイン・フランスがこれを認めず介入し、オーストリア
 継承戦争が起こった。フリードリヒ2世はこれに便乗して参戦し、領土拡張に
 成功した。オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約で終結し、結局マ
 リア=テレジアの王位継承が承認された。
 
  1756年、マリア=テレジアは7年戦争を起こしてプロイセンへの復讐をは
 かった。7年戦争時のオーストリアはロシアと宿敵のフランスとも同盟を結
 び、プロイセンを包囲した。オーストリアととフランスとの提携は画期的で、
 外交革命ともよばれる。イギリスの財政的援助を受けたプロイセンは、緒戦こ
 そ優勢だったが次第に劣勢となり、ベルリンを占領されるなど苦戦を強いられ
 た。1762年、ロシアの皇帝が変わり、これを期にロシアはプロイセン包囲から
 脱落した。これによって戦況が逆転し、プロイセンが勝利を収めた。1763年に
 フベルトゥスブルク条約でシュレジエンを確保したプロイセンは、列強の仲間
 入りを果たした。
 
 
 *************************************************************
 2カッコ抜き
 
 三十年戦争
 
  神聖ローマ帝国では皇帝権が弱く、都市や領邦が割拠していたために分裂状
 態が続いた。1555年の( 1 )の和議以降も宗教的な対立は続き、ファルツ
 伯が中心となって新教連合を、バイエルン侯が中心となって旧教連盟を、それ
 ぞれ結成して新教派と旧教派の諸侯は対抗した。
 
  新旧両教徒の対立が続くなか、1618年、皇帝の旧教政策に反対して( 2 )
 の新教徒が蜂起した。この背景には、( 2 )に住んでいたチェック人はか
 ねてからドイツ人支配に反目していたこともある。この蜂起はドイツの宗教問
 題に火を付け、以後30年にわたるドイツ三十年戦争がはじまった。宗教戦争に
 は周辺諸外国の介入によって複雑化するものが多かったが、ドイツの場合も周
 辺諸国の干渉によって紛争規模が拡大した。
 
  ベーメンでの事件直後から1623年にかけての時期、イギリスの支援を受けた
 ベーメンの新教徒と、皇帝兼オーストリア王であるフェルディナント2世が
 戦った。
 
  1623年から1630年にかけて、国外勢力の介入が強まった。( 3 )王のク
 リスチャン4世が新教派の立場で介入し、皇帝側は傭兵隊長( 4 )が軍を
 率いて戦った。イギリスとオランダはデンマークや新教徒派の諸侯を支援し
 た。
 
  ( 3 )敗退後の1630年から1635年にかけて、スウェーデン王( 5 )
 が参戦した。スウェーデンは領土的野心も持っており、講和条約で西ポンメル
 ンを獲得した。しかし、( 5 )自身はリュッツェンの戦いで戦死した。
 
  グスタフ=アドルフ戦死後の1635年から1648年にかけて、( 6 )が新教
 側について参戦した。( 6 )は国内ではカトリック政策を進めていたが、
 宿敵ハプスブルク家に対抗するために三十年戦争に関しては新教側の立場を
 とった。この結果、三十年戦争への参戦国は、新教側がフランス・オランダ・
 デンマークの3国、旧教側がドイツ皇帝・スペインとなった。
 
  三十年戦争を終結させた講和条約は、1648年に結ばれた。参戦国の代表が
 ( 7 )地方に集まって国際会議を行ったため、この条約は( 7 )条約
 とよばれる。しかし、この会議は長期に及ぶ緩慢なものであったため、その間
 にも戦争は続いていた。
 
  ( 7 )条約によってドイツの宗教紛争は解決したが、その内容はアウグ
 スブルクの和議を再確認するにとどまた。ただし、領主が選択する宗派には、
 この時( 8 )派が加わった。神聖ローマ帝国内については、各領邦・都市
 の主権を確認し、皇帝権は有名無実化した。これを境に領邦国家体制が確立
 し、ドイツの統一は更に遠のいた。また、各領邦内での集権化が進んだ。
 
  フランスとスウェーデンは、( 7 )条約によってドイツから領土を獲得
 た。フランスはライン川沿岸地域(アルザス地方など)を獲得し、領土を東方
 へと拡大した。スウェーデンは西ポンメルン(北ドイツの白海沿岸)に領土を
 獲得した。スウェーデンはこの地域を50年間に渡って押さえ、バルト海の制海
 権を掌握した。その結果、ハンザ同盟は形骸化して勢力を失った。また、
 ( 9 )と( 10 )の独立を国際社会が正式に承認した。
 
  三十年戦争中、主戦場となったドイツは荒廃し、経済・社会的に大打撃を
 被った。特に、ドイツ皇帝側の傭兵隊長であったヴァレンシュタインは通りが
 かりの村々で略奪の限りを尽くし、皇帝は自身の手で国力をそぎ落としてし
 まった。この戦争によってドイツの人口は激減し、戦後もスウェーデンによる
 バルト海の支配など、経済的に打撃をうけた。さらに、領邦国家体制が確立し
 てしまったために19世紀まで統一国家を形成できず、政治的にも他国に遅れを
 とった。
 
 
 プロイセン
 
  プロイセンはブランデンブルク選帝候国とドイツ騎士団領がもととなった領
 邦である。( 11 )家が支配していたブランデンブルク選帝候国は、エルベ
 川以東のスラヴ人の侵入に備える地にあった。ドイツ騎士団領は、13世紀頃か
 らのバルト海沿岸の植民活動で形成され、スラヴ人の攻撃に対する防衛線とし
 ても機能していた。ドイツ騎士団領は後にプロイセン公国となり、1618年、ブ
 ランデンブルク選帝候国と合併してブランデンブルク・プロイセンが成立し
 た。
 
  1640年にプロイセン首長の座に着いたフリードリヒ=ヴィルヘルムは、官僚
 制を整えて常備軍を組織し、絶対主義への道を開いた。次のフリードリヒ1世
 は財政改革や常備軍の拡張などを行った。また、スペイン継承戦争で皇帝を援
 助した実績を評価され、1701年にプロイセンはプロイセン王国に昇格した。
 
  その次の( 12 )は、有力貴族の抑圧し、ユンカー(在地の貴族)に国内
 支配の基盤をおいた。ユンカーは中世的には騎士階級で、官僚や軍隊の中心を
 担っていた。また、国内産業の発展を奨励し、7万にのぼる兵力を養成して軍
 事国家としての基礎を確立した。これは、当時のプロイセンの勢力範囲と国力
 からすれば破格の軍事規模であった。
 
  そのあとを継いだのが( 13 )である。彼は啓蒙君主の代表的人物であ
 る。彼は、その著書「反マキャベリ論」の中で「君主は国家第一の下僕であ
 る」と称した。また、自らが造営したサン・スーシ宮殿にヴォルテールらを招
 くなど、最先端の思想との交流も行った。
 
  その頃、オーストリアではカール6世が実子に王位を継承させるために女性
 の王位継承を可能と定め、( 14 )が王位を継承した。しかし、バイエル
 ン・ザクセン・スペイン・フランスがこれを認めず介入し、オーストリア継承
 戦争が起こった。フリードリヒ2世はこれに便乗して参戦し、領土拡張に成功
 した。オーストリア継承戦争は1748年のアーヘンの和約で終結し、結局
 ( 14 )の王位継承が承認された。
 
  1756年、マリア=テレジアは( 15 )戦争を起こしてプロイセンへの復讐
 をはかった。7年戦争時のオーストリアはロシアと宿敵のフランスとも同盟を
 結び、プロイセンを包囲した。オーストリアととフランスとの提携は画期的
 で、外交革命ともよばれる。イギリスの財政的援助を受けたプロイセンは、緒
 戦こそ優勢だったが次第に劣勢となり、ベルリンを占領されるなど苦戦を強い
 られた。1762年、ロシアの皇帝が変わり、これを期にロシアはプロイセン包囲
 から脱落した。これによって戦況が逆転し、プロイセンが勝利を収めた。1763
 年にフベルトゥスブルク条約でシュレジエンを確保したプロイセンは、列強の
 仲間入りを果たした。
 
 
 解答
 1:アウグスブルク   2:ベーメン   3:デンマーク
 4:ヴァレンシュタイン   5:グスタフ=アドルフ   6:フランス
 7:ウェストファリア   8:カルヴァン
 9・10:オランダ/スイス(順不同)   11:ホーエンツォレルン
 12:フリードリヒ=ヴィルヘルム1世   13:フリードリヒ2世
 14:マリア=テレジア   15:7年
 
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 3一問一答
 
 1:30年戦争に参戦した、ドイツ以外の国はどこか
 2:ウェストファリア条約が締結されたのは西暦何年か
 3:フリードリヒ2世が造営したロココ様式の宮殿は何か
 4:プロイセンを支えた在地貴族を特に何というか
 5:マリア=テレジアの即位によって起こった戦争は何か
 6:「6」の戦争でプロイセンが得た領土はどこか
 7:7年戦争時、オーストリアはどこの国と連合したか
 
 
 解答
 1:デンマーク・スウェーデン・フランス
 2:1648年
 3:サン・スーシ宮殿
 4:ユンカー
 5:オーストリア継承戦争
 6:シュレジエン
 7:フランス・ロシア
 
 
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