| -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
世界史猛特訓 第 60 号 バックナンバー配送バージョン
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
#この文書は「世界史猛特訓」のバックナンバーです。今までに配送し
#てきたものを、そのままの形で配送しています。
このメールは表示幅を71桁以上にしてご覧頂くと快適にお読み頂けます
もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
メールマガジンについての詳細情報は
http://www.sekaishi.com/support/
からどうぞ。
*************************************************************
1本文
宗教改革
ルネサンス期は、宗教改革の動きが活発化した時期でもあった。中世末から
は教会の堕落や腐敗が進み、これに教皇権の衰微も重なって、ウィクリフやフ
スなどから改革の声が出た。しかし、教会はこうした意見を無視し、圧殺し
た。こうした状況でも当時の人々の信仰心は強く、宗教的題材を扱ったルネサ
ンス画や聖地巡礼が広まった。
ルネサンス期、人文主義者が教会の現実を批判したり、古典研究によって純
粋なキリスト教のあり方を探求しようとする動きも出た。社会的には封建社会
の崩壊がはじまり、市民や農民が自由民としての意識を持ち始めた。また、当
時の政治状況は、中央集権化を進める王権と教会勢力とが対立するにまで至っ
ており、統治の側からも既存宗教(カトリック)への批判が強まっていた。こ
うして、徐々に徐々にではあるが新しい思想が受け入れられる下地が形成さ
れ、宗教改革へと繋がった。
ルター
ルターはドイツ人で、宗教改革運動の先頭を走った人物である。そもそも、
ルターが宗教改革運動に参画するようになった直接の原因は、カトリック教会
による贖宥状(免罪符)の乱売であった。当時、教皇レオ10世はサン=ピエト
ロ大聖堂の改築資金を捻出するために、主にドイツで免罪符を乱売したが、ル
ターはこれを批判した。1517年、ルターは「95カ条の論題」を発表し、既存の
カトリックのあり方を問うた。1519年のライプチヒ討論では、ルターは神学者
のヨハン=エックと討論し、ルターは教皇至上を否定した。その結果、ルター
は教皇に破門されたが、ドイツ諸侯は教皇勢力に対抗するルターに注目し、次
第に接近するようになる。
こうした中、1520年にルターは「キリスト者の自由」を発表した。「キリス
ト者の自由」は「教会のバビロン捕囚」「キリスト教貴族に与える」と並ぶ三
大改革書の1つである。ルターは自らの思想の啓蒙に、紙媒体を積極的に利用
した。当時、ようやく活字印刷が可能になってきていたため、当時としては大
量の本を印刷して広めたのである。ルターの宗教改革には、こうした新しいメ
ディアによる宣伝も用いられた。
1521年、当時の神聖ドイツ皇帝カール5世が諸侯を召集し、ヴォルムス帝国
会議(ヴォルムス国会)を開いた。ルターはここでも自説の撤回を求められる
が拒否したため、皇帝はルターの法律上の保護を剥奪した。しかし、こうして
皇帝の敵となったルターは、反肯定派のザクセン選帝侯フリードリヒによりか
くまわれ、その保護下で聖書のドイツ語や宗教改革の推進を行った。
ルターは、もともと聖書研究を行っていた神学者であり、彼は聖書研究の中
で三つの原則に立った。その3つは、「信仰義認説」「福音主義」「万人司祭
主義」であり、信仰義認説は「人が義とされるのは信仰のみによってである」
との考え方、福音主義は「信仰の基本は福音(神の言葉)のみである」との聖
書重視の考え方、万人司祭主義は「すべての人が聖書を手がかりに信仰すべ
き」という考え方で、信仰は個人の内面的なものであるから教会組織や宗教儀
式は不要であるとの考えを示した。
ルターの改革は、当時の政治的な動きと連動して支持を増した。ルターが活
躍した当時、皇帝権の強化と帝国の統一を目指す皇帝勢力と分権を維持しよう
とする諸侯・都市が争っていた。こうした情勢に加え、騎士層の没落や領主か
らの自由を求める農民などの不満もあり、新しい考え方が受け入れられたので
ある。
1522年、ルターの考えに刺激された下級貴族が騎士戦争を起こし、トリエル
大司教等を攻撃した。また1524年、西南ドイツを中心として、富農、中農たち
が諸侯や教会に対するドイツ農民戦争を始めた。特に、ドイツ農民戦争では
「ジュヴァーベン農民12条」を掲げて農奴制の廃止などを要求するなど、行動
は次第に過激化していった。ルターはドイツ農民戦争に対し、初めのうちは同
情的であったといわれる。しかし、農民の行動が過激化するにつれ、ルターは
農民戦争に否定的な見解を持つようになる。このルターの翻意によって、ル
ターは諸侯や都市との結びつきを強めるようになり、皇帝・教皇と諸侯・都
市・ルター主義との対立構図がよりいっそう鮮明になった。
ルターは反教皇・反皇帝の立場をとる世俗権力と結びつくことでルター派を
大きくしていった。その後、皇帝と諸侯勢力は、モハッチの戦いから第一次ウ
ィーン包囲に対抗するため、第一次シュパイエル国会で和解し、皇帝は国内で
のルター派を黙認した。しかし、その後戦況が好転すると、皇帝カール5世は
ルター派を再禁止し、ルター派は皇帝に抗議した。この抗議が「プロテスタン
ト」の名称の元となっている。その後1530年、反教皇同盟シュマルカルデン同
盟が結成され、1546年からシュマルカルデン戦争が行われたが、同盟側は敗北
した。
1555年、皇帝は宗教問題で国内対立が続くことを嫌って、宗教問題の政治的
解決に取り組み、アウグスブルクの和議が成った。皇帝カール5世とルター派
の諸侯・都市の間で取り決められたことは、諸侯・都市に新旧両派の選択自由
権を与えるというもので、ルター派かカトリックかを二者択一することができ
るようになった。しかし、各領域を支配する者が宗教を決定する制度になった
ため、個人が自由に選択することはできなかった。なお、これを機にカール
5世は退位した。しかし、その後も様々なレベルでの宗教対立は続き、ドイツ
は宗教対立をかかえて三十年戦争へと突入する。一方ルター派は、ドイツや北
欧諸国へと普及・拡大していった。
*************************************************************
2カッコ抜き
宗教改革
ルネサンス期は、宗教改革の動きが活発化した時期でもあった。中世末から
は教会の堕落や腐敗が進み、これに教皇権の衰微も重なって、ウィクリフや
( 1 )などから改革の声が出た。しかし、教会はこうした意見を無視し、
圧殺した。こうした状況でも当時の人々の信仰心は強く、宗教的題材を扱った
ルネサンス画や聖地巡礼が広まった。
ルネサンス期、人文主義者が教会の現実を批判したり、古典研究によって純
粋なキリスト教のあり方を探求しようとする動きも出た。社会的には封建社会
の崩壊がはじまり、市民や農民が自由民としての意識を持ち始めた。また、当
時の政治状況は、中央集権化を進める王権と教会勢力とが対立するにまで至っ
ており、統治の側からも既存宗教(カトリック)への批判が強まっていた。こ
うして、徐々に徐々にではあるが新しい思想が受け入れられる下地が形成さ
れ、宗教改革へと繋がった。
ルター
ルターはドイツ人で、宗教改革運動の先頭を走った人物である。そもそも、
ルターが宗教改革運動に参画するようになった直接の原因は、カトリック教会
による贖宥状(免罪符)の乱売であった。当時、教皇( 2 )はサン=ピエ
トロ大聖堂の改築資金を捻出するために、主にドイツで免罪符を乱売したが、
ルターはこれを批判した。1517年、ルターは「( 3 )」を発表し、既存の
カトリックのあり方を問うた。1519年のライプチヒ討論では、ルターは神学者
のヨハン=エックと討論し、ルターは教皇至上を否定した。その結果、ルター
は教皇に破門されたが、ドイツ諸侯は教皇勢力に対抗するルターに注目し、次
第に接近するようになる。
こうした中、1520年にルターは「( 4 )」を発表した。「( 4 )」
は「教会のバビロン捕囚」「キリスト教貴族に与える」と並ぶ三大改革書の
1つである。ルターは自らの思想の啓蒙に、紙媒体を積極的に利用した。当
時、ようやく活字印刷が可能になってきていたため、当時としては大量の本を
印刷して広めたのである。ルターの宗教改革には、こうした新しいメディアに
よる宣伝も用いられた。
1521年、当時の神聖ドイツ皇帝( 5 )が諸侯を召集し、( 6 )帝国
会議を開いた。ルターはここでも自説の撤回を求められるが拒否したため、皇
帝はルターの法律上の保護を剥奪した。しかし、こうして皇帝の敵となったル
ターは、反肯定派の( 7 )によりかくまわれ、その保護下で聖書のドイツ
語や宗教改革の推進を行った。
ルターは、もともと聖書研究を行っていた神学者であり、彼は聖書研究の中
で三つの原則に立った。その3つは、「信仰義認説」「福音主義」「万人司祭
主義」であり、信仰義認説は「人が義とされるのは信仰のみによってである」
との考え方、福音主義は「信仰の基本は福音(神の言葉)のみである」との聖
書重視の考え方、万人司祭主義は「すべての人が聖書を手がかりに信仰すべ
き」という考え方で、信仰は個人の内面的なものであるから教会組織や宗教儀
式は不要であるとの考えを示した。
ルターの改革は、当時の政治的な動きと連動して支持を増した。ルターが活
躍した当時、皇帝権の強化と帝国の統一を目指す皇帝勢力と分権を維持しよう
とする諸侯・都市が争っていた。こうした情勢に加え、騎士層の没落や領主か
らの自由を求める農民などの不満もあり、新しい考え方が受け入れられたので
ある。
1522年、ルターの考えに刺激された下級貴族が騎士戦争を起こし、トリエル
大司教等を攻撃した。また1524年、西南ドイツを中心として、富農、中農たち
が諸侯や教会に対する( 8 )戦争を始めた。特に、( 8 )戦争では
「ジュヴァーベン農民12条」を掲げて農奴制の廃止などを要求するなど、行動
は次第に過激化していった。ルターは( 8 )戦争に対し、初めのうちは同
情的であったといわれる。しかし、農民の行動が過激化するにつれ、ルターは
農民戦争に否定的な見解を持つようになる。このルターの翻意によって、ル
ターは諸侯や都市との結びつきを強めるようになり、皇帝・教皇と諸侯・都
市・ルター主義との対立構図がよりいっそう鮮明になった。
ルターは反教皇・反皇帝の立場をとる世俗権力と結びつくことでルター派を
大きくしていった。その後、皇帝と諸侯勢力は、モハッチの戦いから第一次ウ
ィーン包囲に対抗するため、第一次シュパイエル国会で和解し、皇帝は国内で
のルター派を黙認した。しかし、その後戦況が好転すると、皇帝カール5世は
ルター派を再禁止し、ルター派は皇帝に抗議した。この抗議が「プロテスタン
ト」の名称の元となっている。その後1530年、反教皇同盟( 9 )同盟が結
成され、1546年から( 9 )戦争が行われたが、同盟側は敗北した。
1555年、皇帝は宗教問題で国内対立が続くことを嫌って、宗教問題の政治的
解決に取り組み、( 10 )が成った。皇帝カール5世とルター派の諸侯・都
市の間で取り決められたことは、諸侯・都市に新旧両派の選択自由権を与える
というもので、ルター派かカトリックかを二者択一することができるように
なった。しかし、各領域を支配する者が宗教を決定する制度になったため、個
人が自由に選択することはできなかった。なお、これを機にカール5世は退位
した。しかし、その後も様々なレベルでの宗教対立は続き、ドイツは宗教対立
をかかえて三十年戦争へと突入する。一方ルター派は、ドイツや北欧諸国へと
普及・拡大していった。
解答
1:フス 2:レオ10世 3:95カ条の論題
4:キリスト者の自由 5:カール5世 6:ヴォルムス
7:ザクセン選帝侯フリードリヒ 8:ドイツ農民
9:シュマルカルデン 10:アウグスブルクの和議
*************************************************************
3一問一答
1:アウグスブルクの和議の成立年次は西暦何年か
解答
1:1555年
*************************************************************
4ご案内
====メールマガジン関連のご案内====
ここに掲載する内容は正誤を確認してはおりますが、大量の資料を扱うため
予期せずに間違いが流れてしまうことがあります。間違いを発見なさった方
はwebmaster@sekaishi.comまでご連絡いただきたいと思います。また、
致命的な間違いは、発見され次第、訂正版をお送りいたします。
このメールマガジン内で記述された会社名・商品名は、各社の商標または登
録商標です。
※このメールマガジンに起因するいかなる損害も作者は保証いたしません
※このメールマガジンに関し、編集・発行者は著作権を主張します。
※詳しくは、http://www.sekaishi.com/support/author.html
※の「著作権について」をご覧下さい。
====ウェブサイトのご案内====
メールマガジン登録・解除(機能的です)
http://www.sekaishi.com/mailmag/tokai.html
掲示板(暫定運営中)
http://www.sekaishi.com/bbs/
バックナンバー集(全てのバックナンバーを一覧できます)
http://www.sekaishi.com/mailmag/sekamo/
更新情報
http://www.sekaishi.com/whatsnew.html
中国歴史用語変換辞書for ATOK9/ATOK11(日本語変換ライブラリ)
http://www.sekaishi.com/im/
*「ATOK」は株式会社ジャストシステムの登録商標です。
*************************************************************
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
編集・発行:世界史猛特訓製作委員会
The World History
連絡先:webmaster@sekaishi.com
ホーム:http://www.sekaishi.com/
メルマガの登録・解除、バックナンバーのページ等があります。
このメールマガジンの著作権は編集・発行人が保持しています。
(c) 1998-2002 世界史猛特訓製作委員会
The World History
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= |
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
|