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 世界史猛特訓  第 47 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 教会
 
  10世紀前後、教会制度は危機に直面していた。教会外ではフランク王国が分
 解して封建的分権化が進行し、さらに異教徒・異民族の浸入が相次ぎ、ヴァイ
 キングによる略奪破壊行為も日常化していた。教会内部においては聖職者の腐
 敗が進み、土地の寄進などによって教会の封建領主化も進んだ。また、全く聖
 職に関係のない封建領主が聖職売買によって教会を支配下に置くという現象も
 起こった。
 
  一方、真摯な信仰を探求する聖職者もおり、そうした聖職者達によってクリ
 ュニー修道会などの修道会が設立された。クリュニー修道会は、教会の危機の
 自覚と刷新を求めて聖ベネディクト会の理念への回帰を目指し、農民への布教
 や貧民の救済などの活動を行った。こうした修道会は、教皇を頂点とする大修
 道会を形成して力を持つようになり、封建領主的な聖職者と対立するように
 なった。
 
  1098年、シトー修道会が設立され、清貧と信仰を掲げてに活動を進めた。シ
 トー会は特定の修道会に所属せず教皇の直属機関として各地を巡回して説教を
 行い、下層民や異教徒への布教と教化を進めた。
 
  13世紀に入ると、一切所領や俸給を受けず信者からの浄罪のみによって信仰
 に生きることを掲げる、托鉢修道会という形態の修道会が現れた。1209年、托
 鉢修道会のフランチェスコ修道会がイタリアのアッシジに設立された。また、
 1215年、同じく托鉢修道会のドミニコ修道会は南フランスに設立された。ドミ
 ニコ会はヨーロッパ各地に支院を設立して活動した。
 
  こうした修道会運動の進展や、クリュニー修道会出身の教皇が登場するよう
 になったことから、聖職売買や聖職者の妻帯などが問題とされて教会改革運動
 が行われた。教皇グレゴリウス7世は改革の重点を教皇権の強化に置き、とく
 に聖職者の任免権(聖職叙任権)の教皇掌握を目指した。ところが、帝国教会
 主義をとっていた神聖ローマ帝国では、皇帝ハインリヒ4世が聖職者の任免権
 の保持をとなえて教皇と対立し、聖職叙任権闘争が起こった。ハインりヒ4世
 の抵抗に対して教皇はハインリヒ4世を破門したため、皇帝は国内諸派の支持
 を失ってしまい、諸侯は破門を解かれない限りハインリヒ4世を皇帝と認めな
 いと迫った。その結果、皇帝はカノッサで教皇に謝罪して破門を解かれるとい
 う、カノッサの屈辱がおこった。この後、聖職叙任権は教皇が掌握し、神聖
 ローマ皇帝はこれを追認するというヴォルムス協約を結んで聖職叙任権闘争は
 終結した。これにより、皇帝に対する教皇権の優位が示された。
 
  1095年、ウルバヌス2世はクレルモンの公会議を開き、十字軍の派遣を提唱
 した。翌1096年、各国の王が軍隊を出して十字軍派遣が行われ、教皇権は徐々
 にその力を伸ばしていった。13世紀初め頃のインノケンティウス3世の時代に
 教皇権は絶頂を極め、諸王の指導的地位にまで上り詰めた。そして、その圧倒
 的な力を背景として、イギリス王ジョンやフランス王フィリップ2世などを相
 次いで破門するなど、国家間の抗争に介入した。このような教皇権の強大化
 は、「教皇は太陽、皇帝は月」などとも言われる。
 
 
 東ヨーロッパ世界
 
  ローマ帝国の東西分裂後、東側のビザンツ帝国は独自の世界を形成した。政
 治分野ではローマ帝国の皇帝による統治を継承し、中央集権的な行政機構を維
 持した。宗教分野ではキリスト教が信仰されたが、皇帝教皇主義によって皇帝
 による教会支配が行われた。文学分野では古代の学問や文化伝統が継承され
 た。
 
  ビザンツ帝国の成立から滅亡までを区分すると、おおよそ3つの時期に区分
 できる。第1期は分裂直後から7世紀にかけてで、ローマ帝国の延長として繁
 栄した時期である。この時期、西ローマ帝国領はゲルマン人の大移動で混乱し
 ていたが、ビザンツにはその影響も少なく、ローマ以来のコロナートゥス制が
 維持された。貿易活動も活発であった。6世紀、ユスティニアヌス帝が旧ロー
 マ帝国領の復活を企図した大遠征を行い、ヴァンダル、東ゴートを征服して西
 ゴートからイベリア半島南部を獲得した。また、内政分野でも、官僚制を整備
 して専制君主体制を確立するなど、手腕を発揮した。文化的分野では、トリボ
 リアヌスに命じてローマ法大全の編纂を行った。また、今に残るビザンチン様
 式のセント=ソフィア聖堂改築を行った。
 
  第2期は8〜11世紀にかけての時代で、しだいに領土は縮小しながらも、ギ
 リシアの地域的国家として繁栄を維持した時期である。公用語もラテン語から
 ギリシア語へと変更され、西方世界との政治的、宗教的対立が鮮明化した。
 8世紀、皇帝レオン3世がウマイヤ朝による首都包囲を撃退するなどの功績を
 あげ、イスラムとの接触を契機として聖像禁止令を出した。聖像禁止令はロー
 マ教会の反発を招き、教会組織は東西に分裂してローマカトリック教会とギリ
 シア正教会が成立した。11世紀、セルジューク朝の小アジアの侵入やヴァイキ
 ングの南イタリア占領など、領土喪失が続いた。こうした中で、ヘラクレイオ
 ス1世が異民族の侵入や攻撃への防御のために軍管区(テマ)制や、屯田兵制
 を施行した。
 
  第3期は12世紀〜1453年の滅亡にかけてで、西方からの十字軍の侵入や、バ
 ルカン半島へのスラヴ人の南下、さらにイスラム勢力の伸張と、ビザンツ帝国
 の力は衰退を続けた。11世紀末、セルジューク朝の小アジア侵攻に対して、ア
 レクシオス1世が西方教会に軍事的救援を要請したことから十字軍が開始され
 た。初期の十字軍はそれなりの効果をあげたが、インノケンティウス3世時代
 に行われた第4回十字軍は、ベネツィア商人の策謀によってコンスタンティ
 ノープルを占領したため、ビザンツ帝国は十字軍により一時その支配を停止し
 た。1453年、オスマン=トルコ帝国がコンスタンティノープルを攻略し、ビザ
 ンツ帝国は滅亡した。
 
 
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 2カッコ抜き
 
 教会
 
  10世紀前後、教会制度は危機に直面していた。教会外ではフランク王国が分
 解して封建的分権化が進行し、さらに異教徒・異民族の浸入が相次ぎ、ヴァイ
 キングによる略奪破壊行為も日常化していた。教会内部においては聖職者の腐
 敗が進み、土地の寄進などによって教会の封建領主化も進んだ。また、全く聖
 職に関係のない封建領主が聖職売買によって教会を支配下に置くという現象も
 起こった。
 
  一方、真摯な信仰を探求する聖職者もおり、そうした聖職者達によって
 ( 1 )修道会などの修道会が設立された。クリュニー修道会は、教会の危
 機の自覚と刷新を求めて聖ベネディクト会の理念への回帰を目指し、農民への
 布教や貧民の救済などの活動を行った。こうした修道会は、教皇を頂点とする
 大修道会を形成して力を持つようになり、封建領主的な聖職者と対立するよう
 になった。
 
  1098年、( 2 )修道会が設立され、清貧と信仰を掲げてに活動を進め
 た。シトー会は特定の修道会に所属せず教皇の直属機関として各地を巡回して
 説教を行い、下層民や異教徒への布教と教化を進めた。
 
  13世紀に入ると、一切所領や俸給を受けず信者からの浄罪のみによって信仰
 に生きることを掲げる、托鉢修道会という形態の修道会が現れた。1209年、托
 鉢修道会の( 3 )修道会がイタリアのアッシジに設立された。また、
 1215年、同じく托鉢修道会の( 4 )修道会は南フランスに設立された。ド
 ミニコ会はヨーロッパ各地に支院を設立て活動した。
 
  こうした修道会運動の進展や、クリュニー修道会出身の教皇が登場するよう
 になったことから、聖職売買や聖職者の妻帯などが問題とされて教会改革運動
 が行われた。教皇( 5 )は改革の重点を教皇権の強化に置き、とくに聖職
 者の任免権(聖職叙任権)の教皇掌握を目指した。ところが、( 6 )主義
 をとっていた神聖ローマ帝国では、皇帝( 7 )が聖職者の任免権の保持を
 となえて教皇と対立し、聖職叙任権闘争が起こった。ハインリヒ4世の抵抗に
 対して教皇はハインリヒ4世を破門したため、皇帝は国内諸派の支持を失って
 しまい、諸侯は破門を解かれない限りハインリヒ4世を皇帝と認めないと迫っ
 た。その結果、皇帝は( 8 )で教皇に謝罪して破門を解かれるという、カ
 ノッサの屈辱がおこった。この後、聖職叙任権は教皇が掌握し、神聖ローマ皇
 帝はこれを追認するという( 9 )協約を結んで聖職叙任権闘争は終結し
 た。これにより、皇帝に対する教皇権の優位が示された。
 
  1095年、ウルバヌス2世は( 10 )の公会議を開き、十字軍の派遣を提唱
 した。翌1096年、各国の王が軍隊を出して十字軍派遣が行われ、教皇権は徐々
 にその力を伸ばしていった。13世紀初め頃の( 11 )の時代に教皇権は絶頂
 を極め、諸王の指導的地位にまで上り詰めた。そして、その圧倒的な力を背景
 として、イギリス王ジョンやフランス王フィリップ2世などを相次いで破門す
 るなど、国家間の抗争に介入した。このような教皇権の強大化は、「教皇は太
 陽、皇帝は月」などとも言われる。
 
 
 東ヨーロッパ世界
 
  ローマ帝国の東西分裂後、東側のビザンツ帝国は独自の世界を形成した。政
 治分野ではローマ帝国の皇帝による統治を継承し、中央集権的な行政機構を維
 持した。宗教分野ではキリスト教が信仰されたが、皇帝教皇主義によって皇帝
 による教会支配が行われた。文学分野では古代の学問や文化伝統が継承され
 た。
 
  ビザンツ帝国の成立から滅亡までを区分すると、おおよそ3つの時期に区分
 できる。第1期は分裂直後から7世紀にかけてで、ローマ帝国の延長として繁
 栄した時期である。この時期、西ローマ帝国領はゲルマン人の大移動で混乱し
 ていたが、ビザンツにはその影響も少なく、ローマ以来のコロナートゥス制が
 維持された。貿易活動も活発であった。6世紀、( 12 )帝が旧ローマ帝国
 領の復活を企図した大遠征を行い、ヴァンダル、東ゴートを征服して西ゴート
 からイベリア半島南部を獲得した。また、内政分野でも、官僚制を整備して専
 制君主体制を確立するなど、手腕を発揮した。文化的分野では、トリボリアヌ
 スに命じて( 13 )の編纂を行った。また、今に残るビザンチン様式の
 ( 14 )聖堂改築を行った。
 
  第2期は8〜11世紀にかけての時代で、しだいに領土は縮小しながらも、ギ
 リシアの地域的国家として繁栄を維持した時期である。公用語もラテン語から
 ギリシア語へと変更され、西方世界との政治的、宗教的対立が鮮明化した。
 8世紀、皇帝レオン3世がウマイヤ朝による首都包囲を撃退するなどの功績を
 あげ、イスラムとの接触を契機として( 15 )令を出した。( 15 )令は
 ローマ教会の反発を招き、教会組織は東西に分裂してローマカトリック教会と
 ギリシア正教会が成立した。11世紀、セルジューク朝の小アジアの侵入やヴァ
 イキングの南イタリア占領など、領土喪失が続いた。こうした中で、ヘラクレ
 イオス1世が異民族の侵入や攻撃への防御のために軍管区(テマ)制や、屯田
 兵制を施行した。
 
  第3期は12世紀〜( 16 )年の滅亡にかけてで、西方からの十字軍の侵入
 や、バルカン半島へのスラヴ人の南下、さらにイスラム勢力の伸張と、ビザン
 ツ帝国の力は衰退を続けた。11世紀末、セルジューク朝の小アジア侵攻に対し
 て、アレクシオス1世が西方教会に軍事的救援を要請したことから十字軍が開
 始された。初期の十字軍はそれなりの効果をあげたが、インノケンティウス
 3世時代に行われた( 17 )十字軍は、ベネツィア商人の策謀によってコン
 スタンティノープルを占領したため、ビザンツ帝国は十字軍により一時その支
 配を停止した。1453年、オスマン=トルコ帝国がコンスタンティノープルを攻
 略し、ビザンツ帝国は滅亡した。
 
 
 解答
 1:クリュニー   2:シトー   3:フランチェスコ
 4:ドミニコ   5:グレゴリウス7世   6:帝国教会
 7:ハインリヒ4世   8:カノッサ   9:ヴォルムス
 10:クレルモン   11:インノケンティウス3世
 12:ユスティニアヌス   13:ローマ法大全   14:セント=ソフィア
 15:聖像禁止   16:1453   17:第4回
 
 *************************************************************
 3一問一答
 
 1:聖像禁止令を出した東ローマ皇帝は誰か。
 2:十字軍を西欧に要請した東ローマ皇帝は誰か。
 3:第4回十字軍が上陸、占領したのはどこか。
 4:東ローマ帝国を滅ぼした国は何という国か。
 
 1:レオン3世
 2:アレクシオス1世
 3:コンスタンティノープル
 4:オスマン=トルコ
 
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