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 世界史猛特訓  第 135 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 米ソ関係
 
  米ソの対立は世界各地に及び、アメリカはアジアにおいても日米安保や太平
 洋安全保障条約、東南アジア条約機構、バグダード条約機構などの集団安全保
 障体制を作りあげた。1953年に大統領に就任したアイゼンハウアーのもと、ダ
 レス国務長官は巻き返し政策を発表し、いっそうの軍事対決にそなえた。しか
 し同年3月、スターリンが死去すると、ソ連はトロイカ体制とよばれる集団指
 導体制に移行し、外交政策を平和共存政策へと移行した。これに伴って、アメ
 リカも共存姿勢に傾いた。
 
  1954年1月、ベルリン四国外相会談では、アメリカ・イギリス・フランス・
 ソ連の外相が会談し、インドシナ戦争の休戦問題等についてジュネーヴ会談を
 実施することで一致した。同年4月から7月にかけて、この4カ国のほか南北
 ヴェトナムや中華人民共和国などが参加してジュネーヴ会談がもたれ、インド
 シナ戦争についてジュネーヴ休戦協定が結ばれたが、アメリカはこれに調印し
 なかった。
 
  1955年5月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によりオーストリア国家
 条約が締結され、オーストリアからの四国軍の撤退と、オーストリアの独立が
 決められた。オーストリアは永世中立国とされた。同年7月、ジュネーヴ4巨
 頭会談がもたれた。アメリカのアイゼンハウアー、イギリスのイーデン、フラ
 ンスのフォール、ソ連のブルガーニンが一堂に会したこの会談では、ドイツの
 統一問題やヨーロッパの安全保障問題、東西両陣営の交流について話し合われ
 た。これらの議題について具体的な成果を得ることはなかったが、緊張緩和が
 促進された。
 
  1955年7月、アメリカと中華人民共和国による米中会談が行われ9月には西
 ドイツとソ連の国交が回復した。1956年10月、日本とソ連の国交も回復し、同
 年12月、日本は国際連合に加盟を果たした。
 
  1956年2月、ソ連共産党第20回大会において、第一書記フルシチョフはスタ
 ーリンの個人崇拝や抑圧を批判するいわゆるスターリン批判を展開し、さらに
 西側との平和共存制作を提唱した。この路線に沿ってコミンフォルムは解散さ
 れ、緊張緩和が図られた。
 
  1956年6月、ポーランドでは物価上昇への抗議や民主化を求める運動を発端
 としてボズナニで暴動が起こり、政府に自由化要求が突きつけられた。同年10
 月、ポーランド共産党内ではゴムウカが第一書記に就任して政策を修正し、以
 後ポーランドは自主路線を歩んだ。
 
  一方ハンガリーでは、1956年10月、ブダペストで社会主義に反対する民衆蜂
 起が起き、首相に就任したナジ=イムレが一党独裁の廃止などの民営化路線や
 ワルシャワ条約機構からの脱退を表明した。これに対してソ連は軍事介入を行
 い、ナジ=イムレは処刑された。ソ連のこうした行動は国際的な非難を浴びた
 。
 
  1957年8月、ソ連は大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功し、同年10月、人工衛
 星スプートニクの打ち上げに成功した。これにより、アメリカは核兵器の脅威
 にはじめてさらされることとなった。1958年9月、ソ連はロケットの月面到達
 を果たし、ここでもアメリカに先んじた。
 
  これとほぼ同じ1958年9月、同年3月にソ連の首相を兼務するようになった
 フルシチョフは訪米し、アイゼンハウアー大統領とキャンプ=デーヴィッド会
 談をもった。そこではベルリン問題を中心に討議が行われ、平和共存の方針で
 第二回四カ国巨頭会談の実施を約束した。
 
  しかし、1960年5月にアメリカ軍偵察機U2がソ連領内を飛行中に撃墜され
 、この事件をきっかけにソ連は対米姿勢を硬化させたため、パリ会談は実現し
 なかった。1961年、アメリカ大統領ケネディーとフルシチョフはウィーン会談
 をもったが、ベルリン問題で対立した。そして同年8月、東ドイツは西への人
 口流出を防ぐためにベルリンの壁を構築し、西ベルリンを再封鎖した。これに
 より東西の緊張は一気に高まり、米ソ両国は核実験を再開するなど対立を激化
 させた。
 
  これより少し前の1959年、キューバでは革命が起こって親米バティスタ独裁
 政権が崩壊し、カストロやチェ=ゲバラらによる政権が樹立された。1961年、
 アメリカはキューバとの国交を断絶したが、これに対してキューバは社会主義
 宣言を行い、ソ連に接近した。ソ連はキューバへの軍事援助としてミサイル基
 地建設に動いたが、1962年10月、米大統領ケネディはミサイル基地の撤去を要
 求してキューバを海上封鎖した。こうして、一歩間違えば米ソが全面対決しか
 ねない状況が生まれ、世界は全面核戦争の危機に瀕した。しかし、ここではソ
 連が譲歩してミサイル基地を撤去し、全面核戦争は回避された。
 
  キューバ危機の後、1963年6月に米ソはホットライン協定を成立させ、同年
 8月には部分的核実験停止条約に調印するなど、再び強調を重視するようにな
 った。さらに、1970年からは戦略兵器制限交渉(SALT)が始まり、核兵器
 をめぐる交渉が進展した。1972年5月、ニクソンがソ連を訪問してブレジネフ
 書記長と会談し、第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)に調印した。翌1973
 年6月、ブレジネフが訪米し、核戦争防止協定が調印された。さらに、1979年
 、第二次戦略兵器制限交渉が調印された。
 
 
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 2カッコ抜き
 
 米ソ関係
 
  米ソの対立は世界各地に及び、アメリカはアジアにおいても日米安保や太平
 洋安全保障条約、東南アジア条約機構、バグダード条約機構などの集団安全保
 障体制を作りあげた。1953年に大統領に就任した( 1 )のもと、ダレス国
 務長官は巻き返し政策を発表し、いっそうの軍事対決にそなえた。しかし同年
 3月、( 2 )が死去すると、ソ連はトロイカ体制とよばれる集団指導体制
 に移行し、外交政策を平和共存政策へと移行した。これに伴って、アメリカも
 共存姿勢に傾いた。
 
  1954年1月、ベルリン四国外相会談では、アメリカ・イギリス・フランス・
 ソ連の外相が会談し、インドシナ戦争の休戦問題等についてジュネーヴ会談を
 実施することで一致した。同年4月から7月にかけて、この4カ国のほか南北
 ヴェトナムや中華人民共和国などが参加してジュネーヴ会談がもたれ、インド
 シナ戦争について( 3 )が結ばれたが、アメリカはこれに調印しなかった
 。
 
  1955年5月、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によりオーストリア国家
 条約が締結され、オーストリアからの四国軍の撤退と、オーストリアの独立が
 決められた。オーストリアは永世中立国とされた。同年7月、( 4 )がも
 たれた。アメリカのアイゼンハウアー、イギリスのイーデン、フランスのフォ
 ール、ソ連のブルガーニンが一堂に会したこの会談では、ドイツの統一問題や
 ヨーロッパの安全保障問題、東西両陣営の交流について話し合われた。これら
 の議題について具体的な成果を得ることはなかったが、緊張緩和が促進された
 。
 
  1955年7月、アメリカと中華人民共和国による米中会談が行われ9月には西
 ドイツとソ連の国交が回復した。1956年10月、日本とソ連の国交も回復し、同
 年12月、日本は国際連合に加盟を果たした。
 
  1956年2月、ソ連共産党第20回大会において、第一書記( 5 )はスター
 リンの個人崇拝や抑圧を批判するいわゆるスターリン批判を展開し、さらに西
 側との平和共存制作を提唱した。この路線に沿って( 6 )は解散され、緊
 張緩和が図られた。
 
  1956年6月、ポーランドでは物価上昇への抗議や民主化を求める運動を発端
 としてボズナニで暴動が起こり、政府に自由化要求が突きつけられた。同年10
 月、ポーランド共産党内ではゴムウカが第一書記に就任して政策を修正し、以
 後ポーランドは自主路線を歩んだ。
 
  一方ハンガリーでは、1956年10月、ブダペストで社会主義に反対する民衆蜂
 起が起き、首相に就任したナジ=イムレが一党独裁の廃止などの民営化路線や
 ワルシャワ条約機構からの脱退を表明した。これに対してソ連は軍事介入を行
 い、ナジ=イムレは処刑された。ソ連のこうした行動は国際的な非難を浴びた
 。
 
  1957年8月、ソ連は大陸間弾道弾(ICBM)の実験に成功し、同年10月、人工衛
 星スプートニクの打ち上げに成功した。これにより、アメリカは核兵器の脅威
 にはじめてさらされることとなった。1958年9月、ソ連はロケットの月面到達
 を果たし、ここでもアメリカに先んじた。
 
  これとほぼ同じ1958年9月、同年3月にソ連の首相を兼務するようになった
 ( 5 )は訪米し、( 1 )大統領とキャンプ=デーヴィッド会談をもっ
 た。そこではベルリン問題を中心に討議が行われ、平和共存の方針で第二回四
 カ国巨頭会談の実施を約束した。
 
  しかし、1960年5月にアメリカ軍偵察機U2がソ連領内を飛行中に撃墜され
 、この事件をきっかけにソ連は対米姿勢を硬化させたため、パリ会談は実現し
 なかった。1961年、アメリカ大統領ケネディーとフルシチョフはウィーン会談
 をもったが、ベルリン問題で対立した。そして同年8月、東ドイツは西への人
 口流出を防ぐために( 7 )を構築し、西ベルリンを再封鎖した。これによ
 り東西の緊張は一気に高まり、米ソ両国は核実験を再開するなど対立を激化さ
 せた。
 
  これより少し前の1959年、キューバでは革命が起こって親米バティスタ独裁
 政権が崩壊し、( 8 )やチェ=ゲバラらによる政権が樹立された。1961年
 、アメリカはキューバとの国交を断絶したが、これに対してキューバは社会主
 義宣言を行い、ソ連に接近した。ソ連はキューバへの軍事援助としてミサイル
 基地建設に動いたが、1962年10月、米大統領( 9 )はミサイル基地の撤去
 を要求してキューバを海上封鎖した。こうして、一歩間違えば米ソが全面対決
 しかねない状況が生まれ、世界は全面核戦争の危機に瀕した。しかし、ここで
 はソ連が譲歩してミサイル基地を撤去し、全面核戦争は回避された。
 
  キューバ危機の後、1963年6月に米ソはホットライン協定を成立させ、同年
 8月には部分的核実験停止条約に調印するなど、再び強調を重視するようにな
 った。また、1972年5月、第一次戦略兵器制限交渉(SALT1)が調印され
 た。翌1973年6月、ブレジネフが訪米し、核戦争防止協定が調印された。
 
 
 解答
 1:アイゼンハウアー   2:スターリン   3:ジュネーヴ休戦協定
 4:ジュネーヴ4巨頭会談   5:フルシチョフ   6:コミンフォルム
 7:ベルリンの壁   8:カストロ   9:ケネディ
 
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 3一問一答
 
 1:ジュネーヴ休戦協定で停戦ラインとなったのは北緯何度か
 2:ソ連共産党第20回大会でフルシチョフがスターリン時代の個人崇拝や抑圧
   を非難したことを、特に何というか。
 
 解答
 1:17度
 2:スターリン批判
 
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 4ご案内
 
 
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