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 世界史猛特訓  第 121 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 イギリス
 
  イギリスは第一次世界大戦を境に債務国となり、それまで握っていた世界の
 覇権を手放すことになった。アメリカの圧倒的な生産力の前に貿易も不振とな
 り、国内は不況に陥った。そうしたなか、1918年のロイド=ジョージ内閣下で
 行われた第4回選挙法改正で、21歳以上の男子普通選挙が定められ、1922年の
 選挙では労働党が第二党へと躍進した。1924年、第一次マクドナルド内閣が成
 立し、労働党は自由党と連立してはじめて政権の座についた。マクドナルド内
 閣はソ連を承認するが、わずか1年ほどで保守党内閣にかわられた。1925年、
 イギリスは金本位制をとって経済を安定させ、1928年、第5回選挙法改正で21
 歳以上の成人男女による普通選挙が実現した。1929年、第一党となった労働党
 により第二次マクドナルド内閣が成立するが、直後に起こった世界恐慌の波及
 を受け、その対応におわれた。
 
  この時期、イギリスの植民地に対する政策も変化をみせた。エジプトやイン
 ドに対しては従来通り武力による支配を続けるが、アイルランドはアイルラン
 ド自由国として北アイルランドを分離した形で自治領となり、1926年の大英帝
 国会議では自治領の外交自主権や政治的独立を認めた。これにより、各自治領
 は本国と対等な立場となり、1931年のウェストミンスター憲章では英連邦の成
 立が成文化された。
 
 
 フランス
 
  フランスは、第一次世界大戦で主戦場となり、大きな被害を受けた。さら
 に、革命ソ連が帝政ロシア時代の債務を認めなかったために対ロシア債権を喪
 失し、大きな打撃を受けた。
 
  戦後フランスはクレマンソー内閣のもと、パリ講和会議で徹底的な対ドイツ
 報復を主張し、多額の賠償を要求した。また、ソ連に対する干渉戦争にも参加
 した。こうしたなか、フランスはドイツの賠償金を復興と再建の原資として期
 待したが、ドイツは賠償金の支払不能状態に陥ったため、1923年1月、ポワン
 カレ内閣はベルギーと共同出兵してルール工業地域を占領した。これに対して
 はドイツ人労働者がストライキなどで抵抗し、結局ドーズ案をうけてフランス
 は撤兵した。
 
  しかし、以上のような強硬政策は支持を失い、1924年に左派連合の内閣が成
 立した。ここで外相をつとめたブリアンは対外協調をおしすすめて、ソ連の承
 認やルール撤兵に続き、1925年にはロカルノ条約でヨーロッパの現状維持を目
 指した。しかし、財政問題や植民地をめぐって政権は行き詰まり、1926年には
 ポワンカレ挙国一致内閣にとってかわられた。ここでは、財政の均衡と通貨の
 安定を図って経済危機が克服され、国際協調の姿勢を継続して不戦条約の締結
 が行われた。
 
 
 ドイツ
 
  第一次世界大戦末期のドイツでは国民生活が窮乏し、軍部独裁による国家運
 営も戦況の悪化によりゆらぎをみせた。1918年11月、キール軍港での水兵の反
 乱をきっかけとして蜂起は全国に広がり、ドイツ革命がおこった。これにより
 ドイツ皇帝はオランダに亡命し、ドイツ帝国は崩壊して共和政が成立した。
 
  この結果、ベルリンにはエーベルトを首班とする臨時政府が成立したが、一
 方で各地域に労働者や兵士による評議会が成立し、臨時政府は革命派との主導
 権争いを乗り越えねばならなかった。大戦が終結すると、臨時政府は旧勢力と
 の妥協をはかり、ローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトらの指導
 するスパルタクス団の蜂起を鎮圧するなど、革命派を押さえて政権を確保し
 た。
 
  1919年2月、国民会議が招集され、ドイツ共和国憲法(ヴァイマル憲法)が
 制定されてドイツ共和国が成立した。ヴァイマル憲法は、20歳以上の男女によ
 る普通選挙や国民の持つ広範な自由権に加え、社会権を盛り込むなど、民主的
 で先進的なものであった。ヴァイマル憲法では、強力な権限を持つ大統領を国
 民の直接選挙で選出することも定められ、これに基づいてエーベルトが初代大
 統領に選出された。
 
  こうして成立したドイツ共和国は、その成立の過程で旧勢力との妥協を図っ
 たためにそれらは温存された。また、共和国を担う社会民主党勢力は議会過半
 数を得ることができず、政局は不安定であった。こうした不安定さを反映し
 て、1920年には右派勢力や帝政派軍部によるカップ一揆が起こった。政府は鎮
 圧に成功するが、右派勢力は残存した。1923年にはヒトラーの指導によるミュ
 ンヘン一揆が起こるが鎮圧された。
 
  さらに、全植民地の喪失と領土の縮小、巨額の賠償金は重くのしかかり、経
 済も危機的な状況となるなどその前途は困難なものであった。そのため、社会
 民主党政権はヴェルサイユ条約の内容を履行しようとするものの、思うにまか
 せなかった。こうしたなかで、1923年、ドイツの賠償支払いの遅れを口実とし
 たルール占領と、これに対するドイツの消極的抵抗は、生産の遅滞と破局的な
 インフレをもたらし、ドイツ経済はますます厳しい状況に陥った。
 
  こうしたなか、1923年に成立したシュトレーゼマン内閣は、インフレに対し
 て国有財産を担保とした新紙幣を発行してこれを克服しようとした。1924年、
 ドイツはドーズ案を受け入れ、アメリカ資本を導入することで復興を図るとと
 もに、賠償金の支払いを続けた。これをうけて、1925年内にルール占領を行っ
 ていたフランス軍は完全撤兵した。以後、経済は復興にむかい、1926年には戦
 前の工業水準を回復するに至った。対外的には外相シュトレーゼマンのもと、
 1925年のロカルノ条約や1926年の国際連盟加盟など、国際協調路線を推進し
 た。
 
  ドイツの賠償金問題は西欧の諸国にとって緊急課題であった。賠償金の不払
 いは西欧経済の破綻に直結していたし、一方で重い賠償金によるドイツの経済
 危機はドイツの共産化を招きかねないとの危機感があった。ドイツの賠償責任
 は1919年のヴェルサイユ条約で定められ、その配分比率は翌1920年のスパー会
 議で決められ、具体的な額は1921年のロンドン会議で1320億金マルクとされ
 た。しかし、ドイツは即座に支払不能となり、これに対してフランスとベル
 ギーはルール占領を行った。この結果ドイツは経済破綻をきたし、その再建が
 必要となった。1924年にアメリカが示したドーズ案は、1年あたりの賠償支払
 い額を減軽する一方、アメリカ資本の導入でドイツの復興を後押しし、復興に
 よって得た資金を賠償にあてるという方針を示した。ドイツからイギリスやフ
 ランスに支払われた賠償金は戦債の返済に充てられてアメリカに環流し、経済
 は安定へとむかった。しかし、ドイツの対外債務増大に伴って再び賠償金の支
 払いが困難となったため、1929年のヤング案では賠償金の減額と期間の延長で
 これに対処しようとした。ところが、世界恐慌の波及によりヤング案の実施は
 不可能となり、フーヴァー=モラトリアムによる1年間の賠償金支払い猶予も
 奏効しなかった。1932年のローザンヌ会議で賠償金は大幅に減額されたが、1933
 年にナチス政権が成立するとこれも履行されなかった。
 
 
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 2カッコ抜き
 
 イギリス
 
  イギリスは第一次世界大戦を境に債務国となり、それまで握っていた世界の
 覇権を手放すことになった。アメリカの圧倒的な生産力の前に貿易も不振とな
 り、国内は不況に陥った。そうしたなか、1918年のロイド=ジョージ内閣下で
 行われた第4回選挙法改正で、21歳以上の男子普通選挙が定められ、1922年の
 選挙では( 1 )党が第二党へと躍進した。1924年、第一次( 2 )内閣
 が成立し、( 1 )党は自由党と連立してはじめて政権の座についた。
 ( 2 )内閣はソ連を承認するが、わずか1年ほどで保守党内閣にかわられ
 た。1925年、イギリスは金本位制をとって経済を安定させ、1928年、第5回選
 挙法改正で21歳以上の成人男女による普通選挙が実現した。1929年、第一党と
 なった労働党により第二次( 2 )内閣が成立するが、直後に起こった世界
 恐慌の波及を受け、その対応におわれた。
 
  この時期、イギリスの植民地に対する政策も変化をみせた。エジプトやイン
 ドに対しては従来通り武力による支配を続けるが、アイルランドは( 3 )
 として北アイルランドを分離した形で自治領となり、1926年の大英帝国会議で
 は自治領の外交自主権や政治的独立を認めた。これにより、各自治領は本国と
 対等な立場となり、1931年の( 4 )では英連邦の成立が成文化された。
 
 
 フランス
 
  フランスは、第一次世界大戦で主戦場となり、大きな被害を受けた。さら
 に、革命ソ連が帝政ロシア時代の債務を認めなかったために対ロシア債権を喪
 失し、大きな打撃を受けた。
 
  戦後フランスは( 5 )内閣のもと、パリ講和会議で徹底的な対ドイツ報
 復を主張し、多額の賠償を要求した。また、ソ連に対する干渉戦争にも参加し
 た。こうしたなか、フランスはドイツの賠償金を復興と再建の原資として期待
 したが、ドイツは賠償金の支払不能状態に陥ったため、1923年1月、ポワンカ
 レ内閣はベルギーと共同出兵してルール工業地域を占領した。これに対しては
 ドイツ人労働者がストライキなどで抵抗し、結局ドーズ案をうけてフランスは
 撤兵した。
 
  しかし、以上のような強硬政策は支持を失い、1924年に左派連合の内閣が成
 立した。ここで外相をつとめた( 6 )は対外協調をおしすすめて、ソ連の
 承認やルール撤兵に続き、1925年にはロカルノ条約でヨーロッパの現状維持を
 目指した。しかし、財政問題や植民地をめぐって政権は行き詰まり、1926年に
 はポワンカレ挙国一致内閣にとってかわられた。ここでは、財政の均衡と通貨
 の安定を図って経済危機が克服され、国際協調の姿勢を継続して不戦条約の締
 結が行われた。
 
 
 ドイツ
 
  第一次世界大戦末期のドイツでは国民生活が窮乏し、軍部独裁による国家運
 営も戦況の悪化によりゆらぎをみせた。1918年11月、キール軍港での水兵の反
 乱をきっかけとして蜂起は全国に広がり、ドイツ革命がおこった。これにより
 ドイツ皇帝はオランダに亡命し、ドイツ帝国は崩壊して共和政が成立した。
 
  この結果、ベルリンには( 7 )を首班とする臨時政府が成立したが、一
 方で各地域に労働者や兵士による評議会が成立し、臨時政府は革命派との主導
 権争いを乗り越えねばならなかった。大戦が終結すると、臨時政府は旧勢力と
 の妥協をはかり、ローザ=ルクセンブルクやカール=リープクネヒトらの指導
 する( 8 )団の蜂起を鎮圧するなど、革命派を押さえて政権を確保した。
 
  1919年2月、国民会議が招集され、( 9 )憲法が制定されてドイツ共和
 国が成立した。( 9 )憲法は、20歳以上の男女による普通選挙や国民の持
 つ広範な自由権に加え、社会権を盛り込むなど、民主的で先進的なものであっ
 た。( 9 )憲法では、強力な権限を持つ大統領を国民の直接選挙で選出す
 ることも定められ、これに基づいて( 7 )が初代大統領に選出された。
 
  こうして成立したドイツ共和国は、その成立の過程で旧勢力との妥協を図っ
 たためにそれらは温存された。また、共和国を担う社会民主党勢力は議会過半
 数を得ることができず、政局は不安定であった。こうした不安定さを反映し
 て、1920年には右派勢力や帝政派軍部によるカップ一揆が起こった。政府は鎮
 圧に成功するが、右派勢力は残存した。1923年にはヒトラーの指導による
 ( 10 )が起こるが鎮圧された。
 
  さらに、全植民地の喪失と領土の縮小、巨額の賠償金は重くのしかかり、経
 済も危機的な状況となるなどその前途は困難なものであった。そのため、社会
 民主党政権はヴェルサイユ条約の内容を履行しようとするものの、思うにまか
 せなかった。こうしたなかで、1923年、ドイツの賠償支払いの遅れを口実とし
 た( 11 )と、これに対するドイツの消極的抵抗は、生産の遅滞と破局的な
 インフレをもたらし、ドイツ経済はますます厳しい状況に陥った。
 
  こうしたなか、1923年に成立した( 12 )内閣は、インフレに対して国有
 財産を担保とした新紙幣を発行してこれを克服しようとした。1924年、ドイツ
 は( 13 )を受け入れ、アメリカ資本を導入することで復興を図るととも
 に、賠償金の支払いを続けた。これをうけて、1925年内に( 11 )を行って
 いたフランス軍は完全撤兵した。以後、経済は復興にむかい、1926年には戦前
 の工業水準を回復するに至った。対外的には外相( 12 )のもと、1925年の
 ( 14 )条約や1926年の国際連盟加盟など、国際協調路線を推進した。
 
  ドイツの賠償金問題は西欧の諸国にとって緊急課題であった。賠償金の不払
 いは西欧経済の破綻に直結していたし、一方で重い賠償金によるドイツの経済
 危機はドイツの共産化を招きかねないとの危機感があった。ドイツの賠償責任
 は1919年の( 15 )条約で定められ、その配分比率は翌1920年のスパー会議
 で決められ、具体的な額は1921年のロンドン会議で1320億金マルクとされた。
 しかし、ドイツは即座に支払不能となり、これに対してフランスとベルギーは
 ( 11 )を行った。この結果ドイツは経済破綻をきたし、その再建が必要と
 なった。1924年にアメリカが示した( 13 )は、1年あたりの賠償支払い額
 を減軽する一方、アメリカ資本の導入でドイツの復興を後押しし、復興によっ
 て得た資金を賠償にあてるという方針を示した。ドイツからイギリスやフラン
 スに支払われた賠償金は戦債の返済に充てられてアメリカに環流し、経済は安
 定へとむかった。しかし、ドイツの対外債務増大に伴って再び賠償金の支払い
 が困難となったため、1929年の( 16 )では賠償金の減額と期間の延長でこ
 れに対処しようとした。ところが、世界恐慌の波及によりヤング案の実施は不
 可能となり、( 17 )による1年間の賠償金支払い猶予も奏効しなかった。
 1932年の( 18 )会議で賠償金は大幅に減額されたが、1933年にナチス政権
 が成立するとこれも履行されなかった。
 
 
 
 解答
 1:労働   2:マクドナルド   3:アイルランド自由国
 4:ウェストミンスター憲章   5:クレマンソー   6:ブリアン
 7:エーベルト   8:スパルタクス
 9:ヴァイマル(ドイツ共和国)   10:ミュンヘン一揆
 11:ルール占領   12:シュトレーゼマン   13:ドーズ案
 14:ロカルノ   15:ヴェルサイユ   16:ヤング案
 17:フーヴァー=モラトリアム   18:ローザンヌ
 
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 3一問一答
 
 1:イギリスで労働党がはじめて政権についたのはいつのことか。
 2:イギリスで21歳以上の男子普通選挙が達成されたのは第何回選挙法改正に
   よってか。
 3:ルール占領を行った際のフランス首相は誰か。
 4:ミュンヘン一揆を指導した人物は誰か
 
 解答
 1:1924年
 2:第4回選挙法改正
 3:ポワンカレ
 4:ヒトラー
 
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