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 世界史猛特訓  第 115 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 1本文
 
 インド
 
  1877年の英領インド帝国成立後、インドはイギリスの直轄地となってイギリ
 スによる開発が進んだ。しかし、そうした開発はイギリス本国の利益を優先し
 たものであったため、インドの困窮化はいっそう進んで民衆は圧迫され、飢饉
 も頻発した。
 
  こうしたなか、インドの都市知識人や民族資本家を中心に民族主義的な運動
 が始まり、ベンガル地方を発端に全国に広がっていった。1885年、ボンベイで
 インド国民会議が開催され、都市知識人や商人などが参加してイギリスとの協
 調路線を主張する穏健な国民会議派が形成された。しかし、20世紀になると国
 民会議派内部にも急進派が台頭し、ティラクらがイギリスとの対決を主張する
 ようになった。反英民族運動が盛んになってくると、イギリスは1905年にベン
 ガル分割令を出してベンガル州のヒンドゥー教と居住地とイスラム教徒居住地
 を分割するなど、宗教対立を利用した切り崩しを行った。翌年には、親英派で
 ある全インドムスリム連盟の結成を支援するなど、分断を図った。インドで
 は、ベンガル分割令に反対する抗議行動が強まり、イギリス製品のボイコット
 運動が展開され、1906年のインド国民会議カルカッタ大会は反英的な立場を表
 明した。ここでは四大綱領として、英貨排斥、スワデーシ(国産品愛用)、ス
 ワラージ(自治)、民族教育の4つが決議され、以後国民会議派が独立運動を
 指導した。こうした反対運動の結果、1911年、イギリスはベンガル分割令を取
 り消して譲歩した。
 
  自治の獲得と独立にむけた運動は国民会議派を中心として展開されたが、都
 市知識人と農村の意識格差や、人種や宗教に関する対立などの問題は残り、運
 動はしばしば停滞した。
 
 
 東南アジア
 
  19世紀後半、スペイン植民地だったフィリピンでは、スペイン人との権利平
 等を訴える運動が起こり、ホセ=リサールらの指導によってフィリピン同盟が
 結成された。1896年、ルソン島で反スペインの反乱が起こって民族運動が活発
 化して、アギナルドは独立を宣言するが失敗し、米西戦争中にかけて独立運動
 が高まった。1898年に米西戦争が終結すると、アメリカはフィリピンの独立を
 認めず、アギナルドらはアメリカからの独立を目指して戦った。しかし、1902
 年に独立運動は鎮圧され、フィリピンにはアメリカ資本のプランテーションが
 侵出した。
 
  インドネシアでは、アチェー戦争の結果、スマトラ島もオランダ植民地と
 なった。ジャワ島では、1911年にサレカット=イスラムが結成されて自治を要
 求し、後に半植民地運動の中心勢力になった。
 
  ヴェトナムでは、19世紀末からファン=ボイ=チャウらの指導で独立運動が
 始まった。1904年、維新会が組織され、フランス植民地からの脱却を目指して
 日本への留学を推進する東遊運動が展開された。しかし、1907年の日仏協約で
 日本での反仏留学生の取り締まりが強化されて追放され、失敗した。
 
  緩衝国となって植民地化を免れたタイでは、ラーマ5世(チュラロンコー
 ン)による近代化政策が推進され、不平等条約の改正につとめた。
 
 
 西アジア
 
  イランでは、イギリスとロシアが勢力範囲を拡大していくなか、カジャール
 朝による専制支配が続いた。しかし、1891年には国王のイギリスに対する利権
 譲渡に反対してタバコ=ボイコット運動が展開されるなど、外国勢力に反抗す
 る民族主義運動もあらわれた。19世紀末から20世紀初頭にかけては立憲運動が
 展開され、1905年の立憲革命では国王の譲歩もあって憲法の制定と議会の開設
 が決まった。その後、仮憲法の制定や議会の開設など立憲主義的方向へと動き
 だしたが、1907年にイランに勢力を持つイギリスとロシアが英露協商を結んで
 提携し、ともにイラン国内の動きに干渉を強めたため、その後も憲法と議会政
 治は安定せず混乱が続き、議会は閉鎖された。
 
  オスマン=トルコは19世紀半ばから急速に衰退し、東方問題では列強各国の
 利権獲得の対象となるなど、分割の標的とされた。従来から財政面で大きな影
 響力を持っていたイギリス・フランスに加え、ドイツは3B政策を推進するこ
 とで西アジアへの侵出を目指した。1903年、トルコはドイツに対してバグダー
 ド鉄道の敷設権を与えたために、イギリス・フランスとドイツの間で対立が生
 じた。
 
  こうしたなか、トルコではミドハト憲法の復活を要求する運動が強まり、1908
 年にギリシアのサロニカで陸軍青年将校が蜂起して青年トルコ革命が起こり、
 ミドハト憲法と議会の復活に成功した。この後、第一次世界大戦までエンヴェ
 ル=パシャの指導のもとで青年トルコ党の革命政府が独裁を行った。
 
  この時期にもトルコ分割は活発に行われ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが
 オーストリアに併合されたり、伊土戦争の結果リビアがイタリアに割譲された
 り、ブルガリアが独立を宣言するなど、トルコの領域はますます縮小した。
 
 
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 2カッコ抜き
 
 インド
 
  1877年の英領インド帝国成立後、インドはイギリスの直轄地となってイギリ
 スによる開発が進んだ。しかし、そうした開発はイギリス本国の利益を優先し
 たものであったため、インドの困窮化はいっそう進んで民衆は圧迫され、飢饉
 も頻発した。
 
  こうしたなか、インドの都市知識人や民族資本家を中心に民族主義的な運動
 が始まり、ベンガル地方を発端に全国に広がっていった。1885年、ボンベイで
 ( 1 )が開催され、都市知識人や商人などが参加してイギリスとの協調路
 線を主張する穏健な国民会議派が形成された。しかし、20世紀になると国民会
 議派内部にも急進派が台頭し、( 2 )らがイギリスとの対決を主張するよ
 うになった。反英民族運動が盛んになってくると、イギリスは1905年に
 ( 3 )分割令を出して( 3 )州のヒンドゥー教と居住地とイスラム教
 徒居住地を分割するなど、宗教対立を利用した切り崩しを行った。翌年には、
 親英派である( 4 )の結成を支援するなど、分断を図った。インドでは、
 ( 3 )分割令に反対する抗議行動が強まり、イギリス製品のボイコット運
 動が展開され、1906年のインド国民会議カルカッタ大会は反英的な立場を表明
 した。ここでは( 5 )として、英貨排斥、スワデーシ(国産品愛用)、ス
 ワラージ(自治)、民族教育の4つが決議され、以後国民会議派が独立運動を
 指導した。こうした反対運動の結果、1911年、イギリスは( 3 )分割令を
 取り消して譲歩した。
 
  自治の獲得と独立にむけた運動は国民会議派を中心として展開されたが、都
 市知識人と農村の意識格差や、人種や宗教に関する対立などの問題は残り、運
 動はしばしば停滞した。
 
 
 東南アジア
 
  19世紀後半、スペイン植民地だったフィリピンでは、スペイン人との権利平
 等を訴える運動が起こり、( 6 )らの指導によってフィリピン同盟が結成
 された。1896年、ルソン島で反スペインの反乱が起こって民族運動が活発化し
 て、( 7 )は独立を宣言するが失敗し、米西戦争中にかけて独立運動が高
 まった。1898年に米西戦争が終結すると、アメリカはフィリピンの独立を認め
 ず、( 7 )らはアメリカからの独立を目指して戦った。しかし、1902年に
 独立運動は鎮圧され、フィリピンにはアメリカ資本のプランテーションが侵出
 した。
 
  インドネシアでは、アチェー戦争の結果、スマトラ島もオランダ植民地と
 なった。ジャワ島では、1911年に( 8 )が結成されて自治を要求し、後に
 半植民地運動の中心勢力になった。
 
  ヴェトナムでは、19世紀末から( 9 )らの指導で独立運動が始まった。
 1904年、維新会が組織され、フランス植民地からの脱却を目指して日本への留
 学を推進する( 10 )運動が展開された。しかし、1907年の日仏協約で日本
 での反仏留学生の取り締まりが強化されて追放され、失敗した。
 
  緩衝国となって植民地化を免れたタイでは、( 11 )による近代化政策が
 推進され、不平等条約の改正につとめた。
 
 
 西アジア
 
  イランでは、イギリスとロシアが勢力範囲を拡大していくなか、( 12 )
 朝による専制支配が続いた。しかし、1891年には国王のイギリスに対する利権
 譲渡に反対して( 13 )運動が展開されるなど、外国勢力に反抗する民族主
 義運動もあらわれた。19世紀末から20世紀初頭にかけては立憲運動が展開さ
 れ、1905年の( 14 )では国王の譲歩もあって憲法の制定と議会の開設が決
 まった。その後、仮憲法の制定や議会の開設など立憲主義的方向へと動きだし
 たが、1907年にイランに勢力を持つイギリスとロシアが英露協商を結んで提携
 し、ともにイラン国内の動きに干渉を強めたため、その後も憲法と議会政治は
 安定せず混乱が続き、議会は閉鎖された。
 
  オスマン=トルコは19世紀半ばから急速に衰退し、東方問題では列強各国の
 利権獲得の対象となるなど、分割の標的とされた。従来から財政面で大きな影
 響力を持っていたイギリス・フランスに加え、ドイツは3B政策を推進するこ
 とで西アジアへの侵出を目指した。1903年、トルコはドイツに対して( 15 )
 鉄道の敷設権を与えたために、イギリス・フランスとドイツの間で対立が生じ
 た。
 
  こうしたなか、トルコではミドハト憲法の復活を要求する運動が強まり、1908
 年にギリシアのサロニカで陸軍青年将校が蜂起して( 16 )が起こり、ミド
 ハト憲法と議会の復活に成功した。この後、第一次世界大戦までエンヴェル=
 パシャの指導のもとで青年トルコ党の革命政府が独裁を行った。
 
  この時期にもトルコ分割は活発に行われ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが
 オーストリアに併合されたり、伊土戦争の結果( 17 )がイタリアに割譲さ
 れたり、ブルガリアが独立を宣言するなど、トルコの領域はますます縮小し
 た。
 
 
 
 解答
 1:インド国民会議   2:ティラク   3:ベンガル
 4:全インドムスリム連盟   5:四大綱領   6:ホセ=リサール
 7:アギナルド   8:サレカット=イスラム
 9:ファン=ボイ=チャウ   10:東遊   11:ラーマ5世
 12:カジャール   13:タバコ=ボイコット   14:立憲革命
 15:バグダード   16:青年トルコ革命   17:リビア
 
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 3一問一答
 
 1:インド国民会議に参加した人々が形成した政治結社を何というか。
 2:第一回インド国民会議が開催されたのはどこか。
 3:四大綱領の一つで、国産品愛用を意味する言葉は何か。
 4:四大綱領の一つで、自治を意味する言葉は何か。
 
 1:国民会議派
 2:ボンベイ
 3:スワデーシ
 4:スワラージ
 
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 4ご案内
 
 
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