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世界史猛特訓 第 114 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
日露戦争
ロシアは、日清戦争後の三国干渉で日本の大陸進出を阻止するとともに、中
国東北地方を勢力下に置き、満州に軍を派遣して駐留した。さらに、朝鮮内の
反日派と結んで朝鮮半島への進出の機会をうかがっていた。日清戦争で清の宗
主権から外れた朝鮮は、国号を大韓として独立を示したが、列強の利権獲得が
激化する中で政府内には親露派と親日派が抗争した。
一方日本は、義和団事件時に大軍を派遣するなどしたが、経済的には他の列
強に比べて弱体であり、ロシアの南進によって予想される衝突への対応に苦慮
していた。同じくロシアの南進を警戒していたイギリスは、極東でのロシアの
動きを警戒していたが、南ア戦争の最中であったことから極東でのロシアに対
抗する勢力として日本に注目した。1902年、両者の思惑が一致して日英同盟が
成立し、日本の債権募集に応じたイギリスの財政援助などで、日本はロシアと
の戦争に備えた。
当時、ロシアはフランスと露仏同盟を結んでおり、バルカンへの進出を狙っ
たドイツはロシアの極東への集中を望んでロシアの極東進出を支持した。一
方、日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、アメリカはロシアの南下に反対
して日本を支持した。こうした国際情勢の下で、日露戦争は国際対立の代理戦
争としての性格を持った。
1904年、日本海軍の旅順奇襲から始まった日露戦争は、奉天会戦や旅順港陥
落、そして日本海海戦などで日本が勝利したが、1905年になると日本は戦力、
経済力ともに枯渇して戦争の継続が困難となった。一方、ロシアでは第一革命
の勃発で政情が不安定となり、こちらも戦争継続が難しくなっていた。
こうしたなか、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲裁でポーツマ
ス条約が結ばれ、日露戦争は終結を迎えた。日本側全権小村寿太郎、ロシア側
全権ヴィッテの間で結ばれたこの条約では、日本の韓国への保護権を承認する
こと、日本に遼東半島南部の租借権を委譲すること、日本に南満州鉄道の利権
を委譲すること、南樺太を日本に割譲することなどが盛り込まれた。しかし、
日本が賠償金を得ることはできなかった。
日本が日露戦争で勝利したことは、アジア各国の民族活動に大きな影響を与
えた。このために親日国である国もある。一方、日露戦争を機会に日本の大陸
侵略は本格化し、1910年には日韓併合が行われた。また、この戦争で敗れたロ
シアは南下政策をバルカン半島に向けるようになり、日露協約や英露協商で日
本、イギリスと協調する一方、バルカンを巡ってドイツと対立するようになっ
た。
日韓併合
清の宗主権から独立した朝鮮は大韓と改称して独立を示すが、ロシアや日本
を中心に列強の侵出と干渉にさらされた。さらに、政府内での親露派と親日派
の対立が激化した。
1904年2月、日露戦争が勃発すると日本はソウルに軍隊を派遣し、同年8月
の第一次日韓協約で日本政府推薦の財政・外交顧問の設置を強要し、財政、外
交への干渉を強めた。1905年にはポーツマス条約で朝鮮に対する日本の優先権
が認められたので、その年に結ばれた第二次日韓協約では日本が韓国の外交権
を掌握して統監府を設置するなど、保護国化が行われた。統監府の初代統監は
伊藤博文であった。1907年、第三次日韓協約では行政権、司法権についても掌
握した。こうした日本の干渉に対して朝鮮は反日義兵運動を展開するが、日本
は武力を用いてこれを鎮圧した。初代統監伊藤博文は1909年に安重根に暗殺さ
れるが、日本は、1910年の韓国併合に関する条約で日韓併合を行い、朝鮮総督
府による直接支配を行った。こうして朝鮮は日本の植民地となり、アジア侵略
の拠点となった。
辛亥革命
清では、1905年に科挙が廃止され、翌年には官僚制度の改革や新軍の設置が
行われた。さらに、1908年に憲法大綱を発表して国会開設を約束し、立憲君主
制の導入に向けた準備が始まった。また、1911年には軍機処を廃止して国務大
臣による内閣制が樹立されたが、満州人貴族が中心のものであり、これらの改
革が行われた時期はすでに遅すぎた。
こうした背景のもとで、中国国内には、成長してきた民族資本家を中心とし
た国会の開設と立憲を目指す保皇派と、華僑や留学生などを中心とした清朝の
打倒と漢民族国家の樹立を目指す革命派との、立場の違いが明らかになった。
保皇派は利権回収運動を展開して列強の侵出に抗ったが、革命派は各地で革命
結社を結成して国内諸勢力と連絡した。革命派によって孫文の興中会や、黄興
の華興会、章炳麟の光復会などが結成された。
孫文は1894年にハワイで留学生を中心に興中会を結成し、清朝を打倒する武
装蜂起を起こしたが失敗した。1905年、孫文は東京で中国同盟会を結成し、三
民主義や四大綱領を掲げ、組織的運動を展開した。孫文の三民主義は、民族独
立と民権清朝、民生安定であり、四大綱領は駆除韃虜、恢復中華、創立民国、
平均地権であった。つまり、清朝を打倒して漢民族国家を建設し、民主共和政
を樹立して普通選挙を実現し、土地改革と経済上の平等を達成しようというも
のである。
1911年、政府は四国借款団の借款を得るために幹線鉄道の国有化を図った
が、利権回収の動きに逆行するとして国民の反発を受け、革命派と立憲派の提
携もあって四川暴動が起こった。こうしたなか、1911年10月10日には武昌の湖
北新軍が武昌蜂起を起こして武昌を占領し、独立を宣言した。これが全国に波
及して多くの省が独立し、1912年1月1日に南京を首都とする中華民国の成立
が宣言され、孫文が臨時大総統に就任した。これに対して清朝は袁世凱を総理
に任命して全権を付与し、革命に対抗しようとしたが、袁世凱は革命勢力と妥
協して宣統帝は退位を余儀なくされ、清朝は滅亡した。袁世凱は孫文から臨時
大総統を譲り受けて就任した。
この結果、清朝は滅亡して共和国政府が樹立されたが、革命勢力が十分な力
を持っておらず、袁世凱との妥協を余儀なくされたため、結局実権を掌握した
のは旧清の武将である袁世凱であった。
こうしたなか、孫文は民主化に向けて努力し、議会による大総統選出を法定
し、中国同盟会を解散して国民党を組織した。選挙の結果国民党は大勝する
が、袁世凱は外国勢力の援助も受けて国民党を弾圧し、1913年7月に起こった
第2革命を鎮圧した。この結果国民党は解散させられ、孫文らは亡命する。
1913年に袁世凱は正式に大総統に就任し、1915年にはみずから帝位につこうと
して帝政復活を宣言した。これに対して国内では第3革命が起こり、国外から
も強い反発を受けたために袁世凱はこれを取り消し、その直後に病没した。こ
の頃革命勢力は弱小であったため、袁世凱の死去後は張作霖ら袁世凱の部下が
自立し、各地で列強に支援されて軍閥として割拠した。これらの軍閥はたがい
に政権を巡って抗争し、国内は不安定であった。
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2カッコ抜き
日露戦争
ロシアは、日清戦争後の三国干渉で日本の大陸進出を阻止するとともに、中
国東北地方を勢力下に置き、満州に軍を派遣して駐留した。さらに、朝鮮内の
反日派と結んで朝鮮半島への進出の機会をうかがっていた。日清戦争で清の宗
主権から外れた朝鮮は、国号を大韓として独立を示したが、列強の利権獲得が
激化する中で政府内には親露派と親日派が抗争した。
一方日本は、義和団事件時に大軍を派遣するなどしたが、経済的には他の列
強に比べて弱体であり、ロシアの南進によって予想される衝突への対応に苦慮
していた。同じくロシアの南進を警戒していたイギリスは、極東でのロシアの
動きを警戒していたが、南ア戦争の最中であったことから極東でのロシアに対
抗する勢力として日本に注目した。1902年、両者の思惑が一致して( 1 )
が成立し、日本の債権募集に応じたイギリスの財政援助などで、日本はロシア
との戦争に備えた。
当時、ロシアはフランスと露仏同盟を結んでおり、バルカンへの進出を狙っ
たドイツはロシアの極東への集中を望んでロシアの極東進出を支持した。一
方、日本はイギリスと日英同盟を結んでおり、アメリカはロシアの南下に反対
して日本を支持した。こうした国際情勢の下で、( 2 )戦争は国際対立の
代理戦争としての性格を持った。
1904年、日本海軍の旅順奇襲から始まった( 2 )戦争は、奉天会戦や旅
順港陥落、そして日本海海戦などで日本が勝利したが、1905年になると日本は
戦力、経済力ともに枯渇して戦争の継続が困難となった。一方、ロシアでは
( 3 )の勃発で政情が不安定となり、こちらも戦争継続が難しくなってい
た。
こうしたなか、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲裁で
( 4 )条約が結ばれ、日露戦争は終結を迎えた。日本側全権小村寿太郎、
ロシア側全権ヴィッテの間で結ばれたこの条約では、日本の韓国への保護権を
承認すること、日本に( 5 )の租借権を委譲すること、日本に南満州鉄道
の利権を委譲すること、( 6 )を日本に割譲することなどが盛り込まれ
た。しかし、日本が賠償金を得ることはできなかった。
日本が日露戦争で勝利したことは、アジア各国の民族活動に大きな影響を与
えた。このために親日国である国もある。一方、日露戦争を機会に日本の大陸
侵略は本格化し、1910年には日韓併合が行われた。また、この戦争で敗れたロ
シアは南下政策をバルカン半島に向けるようになり、日露協約や英露協商で日
本、イギリスと協調する一方、バルカンを巡ってドイツと対立するようになっ
た。
日韓併合
清の宗主権から独立した朝鮮は大韓と改称して独立を示すが、ロシアや日本
を中心に列強の侵出と干渉にさらされた。さらに、政府内での親露派と親日派
の対立が激化した。
1904年2月、日露戦争が勃発すると日本はソウルに軍隊を派遣し、同年8月
の第一次日韓協約で日本政府推薦の財政・外交顧問の設置を強要し、財政、外
交への干渉を強めた。1905年にはポーツマス条約で朝鮮に対する日本の優先権
が認められたので、その年に結ばれた第二次日韓協約では日本が韓国の外交権
を掌握して統監府を設置するなど、保護国化が行われた。統監府の初代統監は
伊藤博文であった。1907年、第三次日韓協約では行政権、司法権についても掌
握した。こうした日本の干渉に対して朝鮮は反日義兵運動を展開するが、日本
は武力を用いてこれを鎮圧した。初代統監伊藤博文は1909年に( 7 )に暗
殺されるが、日本は、1910年の韓国併合に関する条約で日韓併合を行い、朝鮮
総督府による直接支配を行った。こうして朝鮮は日本の植民地となり、アジア
侵略の拠点となった。
辛亥革命
清では、1905年に( 8 )が廃止され、翌年には官僚制度の改革や新軍の
設置が行われた。さらに、1908年に( 9 )を発表して国会開設を約束し、
立憲君主制の導入に向けた準備が始まった。また、1911年には軍機処を廃止し
て国務大臣による内閣制が樹立されたが、満州人貴族が中心のものであり、こ
れらの改革が行われた時期はすでに遅すぎた。
こうした背景のもとで、中国国内には、成長してきた民族資本家を中心とし
た国会の開設と立憲を目指す保皇派と、華僑や留学生などを中心とした清朝の
打倒と漢民族国家の樹立を目指す革命派との、立場の違いが明らかになった。
保皇派は( 10 )運動を展開して列強の侵出に抗ったが、革命派は各地で革
命結社を結成して国内諸勢力と連絡した。革命派によって孫文の( 11 )会
や、黄興の華興会、章炳麟の光復会などが結成された。
孫文は1894年にハワイで留学生を中心に( 11 )会を結成し、清朝を打倒
する武装蜂起を起こしたが失敗した。1905年、孫文は東京で( 12 )を結成
し、三民主義や四大綱領を掲げ、組織的運動を展開した。孫文の三民主義は、
民族独立と民権清朝、民生安定であり、四大綱領は駆除韃虜、恢復中華、創立
民国、平均地権であった。つまり、清朝を打倒して漢民族国家を建設し、民主
共和政を樹立して普通選挙を実現し、土地改革と経済上の平等を達成しようと
いうものである。
1911年、政府は四国借款団の借款を得るために幹線鉄道の国有化を図った
が、利権回収の動きに逆行するとして国民の反発を受け、革命派と立憲派の提
携もあって( 13 )暴動が起こった。こうしたなか、1911年10月10日には武
昌の湖北新軍が( 14 )を起こして武昌を占領し、独立を宣言した。これが
全国に波及して多くの省が独立し、1912年1月1日に南京を首都とする
( 15 )の成立が宣言され、孫文が臨時大総統に就任した。これに対して清
朝は( 16 )を総理に任命して全権を付与し、革命に対抗しようとしたが、
( 16 )は革命勢力と妥協して宣統帝は退位を余儀なくされ、清朝は滅亡し
た。( 16 )は孫文から臨時大総統を譲り受けて就任した。
この結果、清朝は滅亡して共和国政府が樹立されたが、革命勢力が十分な力
を持っておらず、袁世凱との妥協を余儀なくされたため、結局実権を掌握した
のは旧清の武将である袁世凱であった。
こうしたなか、孫文は民主化に向けて努力し、議会による大総統選出を法定
し、中国同盟会を解散して( 17 )党を組織した。選挙の結果国民党は大勝
するが、袁世凱は外国勢力の援助も受けて国民党を弾圧し、1913年7月に起
こった第2革命を鎮圧した。この結果国民党は解散させられ、孫文らは亡命す
る。1913年に袁世凱は正式に大総統に就任し、1915年にはみずから帝位につこ
うとして帝政復活を宣言した。これに対して国内では第3革命が起こり、国外
からも強い反発を受けたために袁世凱はこれを取り消し、その直後に病没し
た。この頃革命勢力は弱小であったため、袁世凱の死去後は張作霖ら袁世凱の
部下が自立し、各地で列強に支援されて( 18 )として割拠した。これらの
軍閥はたがいに政権を巡って抗争し、国内は不安定であった。
解答
1:日英同盟 2:日露 3:第一革命 4:ポーツマス
5:遼東半島南部 6:南樺太 7:安重根 8:科挙
9:憲法大綱 10:利権回収 11:興中 12:中国同盟会
13:四川 14:武昌蜂起 15:中華民国 16:袁世凱
17:国民 18:軍閥
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3一問一答
1:ポーツマス条約の仲介を行ったアメリカ大統領は誰か。
2:安重根に暗殺された初代韓国統監は誰か。
3:孫文が掲げた革命の3つの基本理念を何というか。
解答
1:セオドア=ローズヴェルト
2:伊藤博文
3:三民主義
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