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世界史猛特訓 第 112 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
アフリカ分割
18世紀末まで、アフリカは暗黒大陸といわれており、沿岸部を除いては手つ
かずの状態であった。しかし、19世紀になると、イギリスの宣教師リヴィング
ストンやジャーナリストで探検家のスタンレーの中央アフリカ探検によって、
アフリカに対する認識が改まり、豊富な鉱産資源の存在も明らかになったため
に、帝国主義列強はアフリカに関心を示すようになった。スタンレーは探検の
際にベルギー王の支援を受けていたため、彼が探検したコンゴはベルギー王の
私領となった。
1880年代になると、イギリスやフランスを中心にアフリカへの列強進出が進
んだ。さらに、コンゴの領有を巡ってはベルギーと他の諸国が対立し、1884年
から翌年にかけ、ビスマルクの調停でアフリカ分割に関するベルリン会議が開
かれた。ここでは、コンゴ自由国を承認してベルギーの領有を認めるととも
に、植民地について先占の原則を認めたため、その後の列強のアフリカ進出は
いっそう強まった。1890年代に入るとドイツやイタリアもアフリカの分割に参
入し、19世紀中にほぼ分割は完了した。
イギリスは、1869年に完成したスエズ運河の株を買収してフランスとともに
運河を支配し、1882年のアラービー=パシャの乱を鎮圧した後はエジプトを軍
事占領して事実上保護国化した。さらに、1880年代からスーダンへの侵入を試
み、マフディー派の頑強な抵抗を退けて1899年には征服を完了した。一方南ア
フリカでは、17世紀にオランダがケープ植民地を形成しており、オランダ系の
ブール人が農業移民として生活していた。しかし、19世紀に入るとイギリスも
南アフリカに進出し、ケープタウンを拠点として植民地化を進めたため、ブー
ル人は内陸に移動してトランスヴァール共和国やオレンジ自由国を建国した。
19世紀後半になると両国でダイヤモンドや金が発見され、ケープ植民地の首相
であったセシル=ローズはローデシア植民地を建設するとともに、ブール人が
居住する両国の併合を画策した。その後、イギリスは1899年からは南ア戦争を
起こしてブール人と戦い、苦戦の末に勝利して両国を併合した。この結果、南
アフリカの金やダイヤモンドを独占して世界の流通を支配することに成功し
た。戦争後は、ブール人に対して大幅な自治権を承認し、後に白人の共同支配
体制を確立して1910年に南アフリカ連邦が成立した。南アフリカでは最近まで
アパルトヘイトが行われていたが、人種隔離への強い非難を受けて撤廃され
た。アフリカの北端と南端をおさえたイギリスは、カイロとケープタウンにカ
ルカッタを結んだ地域の支配を目指す3C政策を展開した。
フランスは、19世紀前半に攻略したアルジェリアを足がかりに1881年にはチ
ュニジアを保護国化し、南進してサハラ砂漠の一体を領有した。さらに、ジブ
チやマダガスカルに至る地域の領有を企てて、アフリカ横断政策を展開した。
しかし、その途上でアフリカ縦断を推進するイギリスと、現在のスーダンで衝
突し、ファショダ事件が起こった。この時はフランスが譲歩した。その後、ド
イツの進出に対して共同で対抗するために両国は妥協を図り、1904年に英仏協
商を結んでイギリスがエジプトとスーダンで優越権を持つ一方、フランスはモ
ロッコでの優越権を得た。
ドイツは、ベルリン会議後に積極的な進出を開始し、西南アフリカやカメ
ルーン、東アフリカなどの植民地を得た。20世紀に入るとヴィルヘルム2世は
対外積極策をとり、1905年にはヴィルヘルム2世が英仏協商に反対してタン
ジールに上陸し、第一次モロッコ事件を起こしたが、イギリスがフランスを支
援したためにモロッコはフランスの勢力下となった。1911年にはドイツがモロ
ッコのアカディールに艦隊を派遣して第二次モロッコ事件を起こすが、道つと
フランスは協定を結んでドイツが譲歩し、仏領コンゴの一部とひきかえにフラ
ンスのモロッコでの保護権を認めた。その後、1912年にモロッコは正式にフラ
ンスの保護国となった。
イタリアは、1882年にエリトレアを領有し、1889年にはソマリアを領有し
た。1896年にはエチオピアへの侵入を試みるがアドワの戦いで敗退し、進出に
失敗する。1911年の伊土戦争ではトリポリとキレナイカをトルコから獲得し
た。
ベルギーは、国王レオポルド2世がスタンレーの探検を援助したことからコ
ンゴを国王の私領としていたが、1885年にこれがコンゴ自由国として国際的に
承認された。さらに、1908年にはコンゴはベルギー領となった。
こうした列強のアフリカ分割の結果、イタリアの侵攻を阻止したエチオピア
と、アメリカの国内解放奴隷が移民して建国したリベリアの2国以外は全て列
強の支配下となった。
太平洋地域の分割
東南アジア地域には16世紀からスペインやポルトガル、オランダが進出し、
遅れてイギリスが進出した。
1642年、オランダ人のタスマンが発見したオーストラリアは、1770年にイギ
リスのクックの領有宣言によってイギリス領となり、流刑植民地となった。そ
の後移民が増加し、19世紀に金鉱が発見されるとゴールドラッシュが起こって
移民は増加した。1901年、大英帝国内の自治領としてオーストラリア連邦が成
立した。19世紀前半から、イギリスはニュージーランドにも進出して、先住の
マオリ族と抗争した。こちらも1907年に自治領としてニュージーランド連邦と
なった。イギリスはその他に、北ボルネオや東部ニューギニア、フィジー諸島
などを領有した。
アメリカは18世紀半ばからハワイに進出し、1893年には海兵隊の力でハワイ
王国を打倒して事実上の支配を開始した。1898年、ハワイはアメリカ合衆国に
併合された。さらに、米西戦争での勝利でフィリピンとグアム島を獲得し、20
世紀初頭にはパナマ運河を建設して太平洋への本格的な進出を開始した。米西
戦争の少し前、フィリピンではホセ=リサールらが活躍し、反スペイン反乱が
などの民族運動が活発化した。1898年の米西戦争時にも、アギナルドを指導者
として独立運動が高まり、翌1899年には独立宣言をした。しかし、1902年にア
メリカはこれを鎮圧し、領有した。
ドイツは、1880年代にメラネシアの諸諸島を領有し、フランスはニューカレ
ドニアやタヒチなどを領有した。
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2カッコ抜き
アフリカ分割
18世紀末まで、アフリカは暗黒大陸といわれており、沿岸部を除いては手つ
かずの状態であった。しかし、19世紀になると、イギリスの宣教師( 1 )
やジャーナリストで探検家の( 2 )の中央アフリカ探検によって、アフリ
カに対する認識が改まり、豊富な鉱産資源の存在も明らかになったために、帝
国主義列強はアフリカに関心を示すようになった。スタンレーは探検の際にベ
ルギー王の支援を受けていたため、彼が探検したコンゴはベルギー王の私領と
なった。
1880年代になると、イギリスやフランスを中心にアフリカへの列強進出が進
んだ。さらに、コンゴの領有を巡ってはベルギーと他の諸国が対立し、1884年
から翌年にかけ、ビスマルクの調停でアフリカ分割に関する( 3 )会議が
開かれた。ここでは、コンゴ自由国を承認してベルギーの領有を認めるととも
に、植民地について先占の原則を認めたため、その後の列強のアフリカ進出は
いっそう強まった。1890年代に入るとドイツやイタリアもアフリカの分割に参
入し、19世紀中にほぼ分割は完了した。
イギリスは、1869年に完成したスエズ運河の株を買収してフランスとともに
運河を支配し、1882年の( 4 )を鎮圧した後はエジプトを軍事占領して事
実上保護国化した。さらに、1880年代からスーダンへの侵入を試み、( 5 )
派の頑強な抵抗を退けて1899年には征服を完了した。一方南アフリカでは、17
世紀にオランダが( 6 )植民地を形成しており、オランダ系のブール人が
農業移民として生活していた。しかし、19世紀に入るとイギリスも南アフリカ
に進出し、ケープタウンを拠点として植民地化を進めたため、ブール人は内陸
に移動して( 7 )共和国や( 8 )自由国を建国した。19世紀後半にな
ると両国でダイヤモンドや金が発見され、ケープ植民地の首相であった
( 9 )はローデシア植民地を建設するとともに、ブール人が居住する両国
の併合を画策した。その後、イギリスは1899年からは( 10 )を起こして
ブール人と戦い、苦戦の末に勝利して両国を併合した。この結果、南アフリカ
の金やダイヤモンドを独占して世界の流通を支配することに成功した。戦争後
は、ブール人に対して大幅な自治権を承認し、後に白人の共同支配体制を確立
して1910年に南アフリカ連邦が成立した。南アフリカでは最近まで( 11 )
が行われていたが、人種隔離への強い非難を受けて撤廃された。アフリカの北
端と南端をおさえたイギリスは、カイロとケープタウンにカルカッタを結んだ
地域の支配を目指す3C政策を展開した。
フランスは、19世紀前半に攻略したアルジェリアを足がかりに1881年にはチ
ュニジアを保護国化し、南進してサハラ砂漠の一体を領有した。さらに、ジブ
チやマダガスカルに至る地域の領有を企てて、アフリカ横断政策を展開した。
しかし、その途上でアフリカ縦断を推進するイギリスと、現在のスーダンで衝
突し、( 12 )事件が起こった。この時はフランスが譲歩した。その後、ド
イツの進出に対して共同で対抗するために両国は妥協を図り、1904年に( 13 )
を結んでイギリスがエジプトとスーダンで優越権を持つ一方、フランスはモロ
ッコでの優越権を得た。
ドイツは、ベルリン会議後に積極的な進出を開始し、西南アフリカやカメ
ルーン、東アフリカなどの植民地を得た。20世紀に入るとヴィルヘルム2世は
対外積極策をとり、1905年にはヴィルヘルム2世が英仏協商に反対してタン
ジールに上陸し、第一次モロッコ事件を起こしたが、イギリスがフランスを支
援したためにモロッコはフランスの勢力下となった。1911年にはドイツがモロ
ッコのアカディールに艦隊を派遣して第二次モロッコ事件を起こすが、道つと
フランスは協定を結んでドイツが譲歩し、仏領コンゴの一部とひきかえにフラ
ンスのモロッコでの保護権を認めた。その後、1912年にモロッコは正式にフラ
ンスの保護国となった。
イタリアは、1882年にエリトレアを領有し、1889年にはソマリアを領有し
た。1896年には( 14 )への侵入を試みるがアドワの戦いで敗退し、進出に
失敗する。1911年の伊土戦争ではトリポリとキレナイカをトルコから獲得し
た。
ベルギーは、国王レオポルド2世がスタンレーの探検を援助したことからコ
ンゴを国王の私領としていたが、1885年にこれがコンゴ自由国として国際的に
承認された。さらに、1908年にはコンゴはベルギー領となった。
こうした列強のアフリカ分割の結果、イタリアの侵攻を阻止した( 14 )
と、アメリカの国内解放奴隷が移民して建国した( 15 )の2国以外は全て
列強の支配下となった。
太平洋地域の分割
東南アジア地域には16世紀からスペインやポルトガル、オランダが進出し、
遅れてイギリスが進出した。
1642年、オランダ人のタスマンが発見したオーストラリアは、1770年にイギ
リスの( 16 )の領有宣言によってイギリス領となり、流刑植民地となっ
た。その後移民が増加し、19世紀に金鉱が発見されるとゴールドラッシュが起
こって移民は増加した。1901年、大英帝国内の自治領としてオーストラリア連
邦が成立した。19世紀前半から、イギリスは( 17 )にも進出して、先住の
マオリ族と抗争した。こちらも1907年に自治領としてニュージーランド連邦と
なった。イギリスはその他に、北ボルネオや東部ニューギニア、フィジー諸島
などを領有した。
アメリカは18世紀半ばからハワイに進出し、1893年には海兵隊の力でハワイ
王国を打倒して事実上の支配を開始した。1898年、ハワイはアメリカ合衆国に
併合された。さらに、米西戦争での勝利で( 18 )と( 19 )島を獲得
し、20世紀初頭には( 20 )運河を建設して太平洋への本格的な進出を開始
した。米西戦争の少し前、フィリピンでは( 21 )らが活躍し、反スペイン
反乱などの民族運動が活発化した。1898年の米西戦争時にも、( 22 )を指
導者として独立運動が高まり、翌1899年には独立宣言をした。しかし、1902年
にアメリカはこれを鎮圧し、領有した。
ドイツは、1880年代にメラネシアの諸諸島を領有し、フランスはニューカレ
ドニアやタヒチなどを領有した。
解答
1:リヴィングストン 2:スタンレー 3:ベルリン
4:アラービー=パシャの乱 5:マフディー 6:ケープ
7:トランスヴァール 8:オレンジ 9:セシル=ローズ
10:南ア戦争(ブール戦争) 11:アパルトヘイト 12:ファショダ
13:英仏協商 14:エチオピア 15:リベリア 16:クック
17:ニュージーランド 18:フィリピン 19:グアム
20:パナマ 21:ホセ=リサール 22:アギナルド
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3一問一答
1:1830年にフランスが侵攻し、併合されたのは北アフリカのどこか。
2:アフリカ分割に関するベルリン会議を開催したのは誰か
3:イギリスの3C政策の3Cとは何か。
4:イタリアのエチオピア侵入の際、イタリア軍が敗退した戦いは何か。
5:オーストラリアやニュージーランドを発見したオランダの探検家は誰か。
解答
1:アルジェリア
2:ビスマルク
3:カイロ・ケープタウン・カルカッタ
4:アドワの戦い
5:タスマン
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