| -=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
世界史猛特訓 第 111 号 バックナンバー配送バージョン
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
#この文書は「世界史猛特訓」のバックナンバーです。今までに配送し
#てきたものを、そのままの形で配送しています。
このメールは表示幅を71桁以上にしてご覧頂くと快適にお読み頂けます
もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
メールマガジンについての詳細情報は
http://www.sekaishi.com/support/
からどうぞ。
*************************************************************
1本文
フランス
フランスは、国内市場が狭かったことや軽工業を中心に工業が発展したこと
などから、国内余剰資本の資本輸出を盛んに行ってヨーロッパの高利貸しとも
言われた。投資先の中心は東欧諸国やロシアであった。その一方で、インドシ
ナやアフリカなどにイギリスに次ぐ規模の植民地を形成し、隣国ドイツへの警
戒から、露仏同盟や英仏協商といった同盟を締結して対抗した。
ナポレオン3世の失脚後、フランスの国内体制は第三共和政となるが、右派
と左派の対立や軍部の策動などもあって政情は不安定であり、1886年には元陸
軍大臣ブーランジェがのクーデターを企てるブーランジェ事件が起こった。
1894年のドレフュス事件ではユダヤ系将校がスパイであるとして裁かれたが、
後に真犯人が現れたために文豪のゾラがドレフュスの無罪を主張するなど社会
的な波紋が広がり、1906年にドレフュスは無罪となった。これによって軍部の
権威は失墜し、共和派の政府が支持された。
フランスでの社会主義勢力は、1871年のパリ=コミューン崩壊で衰退した。
その後合法化された労働組合活動は、その方針をめぐって穏健派と革命派に分
裂し、労働運動の中には組合の直接行動による革命を目指したサンディカリズ
ムなどの動きもあった。1901年に共和派が急進社会党を設立し、穏健な中間層
の支持を得て政権を担当した。1905年、急進社会党は政教分離法を制定してカ
トリック勢力の政治介入を排除した。同じ1905年には小市民層を支持基盤とす
るフランス社会党が結成され、その後のフランスは政治的な安定にむかった。
ドイツ
ドイツでは、ビスマルクによる保護関税政策のもとで産業革命が進展し、19
世紀末には重化学工業を中心とした産業が発展してイギリスをしのぐまでに
なった。その過程で資本の集中と独占資本の形成が進行し、多数のカルテルが
生まれた。
1888年にヴィルヘルム2世が即位し、1890年にビスマルクが辞任して親政が
始まると、ヴィルヘルム2世は新航路政策を提唱して世界市場への進出を企図
し、世界政策を展開した。その結果、西アジア方面を中心に植民地獲得を強力
に推進し、モロッコの領有問題や3B政策などで他の列強と厳しく対立した。
さらに、海軍の軍備拡張を図って、イギリスとの対立を深めた。
ドイツでの社会主義勢力は、1860年代の経済発展に伴って勢力を伸ばした。
ラサールらの改良主義者が指導する全ドイツ労働者協会や、マルクス主義者の
ベーベルらの指導する社会民主労働者党などが生まれ、1875年には両派が合同
してドイツ社会主義者労働党が結成された。ビスマルクの時代には社会主義者
鎮圧法が制定されるなど弾圧されたが効果は薄く、経済の独占化が進むにつれ
てかえって社会主義勢力は伸張した。1890年、ドイツ社会主義者労働党は社会
民主党(SPD)と改称し、マルクス主義を掲げるエルフルト綱領を採択して
第2インターナショナルの中心的勢力となった。1896年になると修正主義が台
頭して政党内の路線が転換され、ベルンシュタインらを中心に社会民主主義の
立場となって、議会を通じた漸進的改革を指向した。後に、下院で第一党にな
るほど勢力を伸ばした。
ロシア
ロシアでは、1861年に農奴解放令が出されて近代化の基礎が築かれたが、依
然としてツァーリズムが維持されるなど後進的な国家であった。しかし、1890
年代に入るとフランスを中心にイギリスやドイツからも資本が流入し、都市部
を中心に大工場が建設されて重工業が発展した。しかし、国家の後進性のため
国民の生活水準は低く市場も狭かったから、生産物の市場は海外に求めること
になり、帝国主義的な政策をとるようになった。
1891年には露仏同盟を締結し、フランスからの投資で1891年にシベリア鉄道
敷設に着手した。また、1895年には日清戦争後の日本に三国干渉を行い、中国
東北部への進出を開始した。1900年からは義和団事件後の中国東北地区を占領
し、さらに朝鮮半島へと勢力を拡大しようとして日本との対立が深刻化した。
1904年に日露戦争が起こるとロシアはこれに破れ、その結果ロシアは東アジア
での南下を断念してバルカン半島での南下に力を入れた。バルカン半島はドイ
ツの3B政策やオーストリア=ハンガリー帝国の領土拡張などの舞台ともなっ
ており、そこにロシアが参入することで対立が激化して、第一次世界大戦の原
因となった。
ツァーリズムの続くロシアでは、専制的支配からの解放と労働者の生活改善
を求めて諸政党が結成された。労働者の政党はプレハーノフが持ち込んだ社会
主義思想の影響を受け、1898年にレーニンやプレハーノフらによってロシア社
会民主労働党が結成された。ロシア社会民主労働党はマルクス主義政党で、激
しい弾圧を受けたために多くの指導者が亡命し、1903年には分裂した。分裂
後、レーニンらは急進的な社会主義革命を求める前衛政党のボリシェヴィキを
結成し、一方、ブハーリンやマルトフらは漸進的な民主主義革命を目指して中
産層などとも連携したメンシェヴィキを結成した。このほかに、1901年にナ
ロードニキの流れをくむ社会革命党が結成され、1905年には資本家や自由主義
者の支持で西欧的な民主主義を求める立憲民主党が結成された。
1905年、専制と戦争下で民衆の困窮が強まり、1月22日に生活の改善要求と
国会開設の請願のため、ペテルブルクの冬宮前広場に民衆が集まった。これに
対して軍が発砲して血の日曜日事件を引き起こしたことから第一革命が始ま
り、ゼネストなどの抗議運動が全国に波及し、その過程で各地にソヴィエトが
結成された。さらに、6月27日には戦艦ポチョムキン号の水兵が反乱を起こす
など、軍隊にまで革命の動きが及んだ。こうした動きの結果、ロシア政府は日
露戦争の継続を断念し、10月には立法権のあるドゥーマ(議会)の開設や憲法
の制定などを約束する十月勅令を出して革命の沈静化を図った。12月にモスク
ワの労働者が武装蜂起したが、政府に鎮圧されて革命は頓挫した。1806年、議
会が開催されたが皇帝専制体制は継続され、首相のストルイピンは反動的な政
治を行った。1807年には国会が解散され、自由主義運動や革命運動は弾圧され
た。
その後、政府はミールを解体して共有地を廃止し、農地の個人所有を承認し
て自作農を創設した。その結果、一定程度において自作農経営が発展して富農
も現れたが、一方で多くの農民が耕作権を失ったために貧農が困窮化して社会
不安の原因となった。
アメリカ
南北戦争後のアメリカでは経済が飛躍的に発展し、1880年代には世界一の工
業国となった。アメリカではトラストを中心とした独占資本が形成され、ロッ
クフェラーのスタンダード石油やカーネギーのUSスティールなどが各々の業
界を支配した。こうした中、1886年にゴンパーズの指導下で熟練労働者を組織
したアメリカ労働総同盟(AFL)が結成されて経済的要求を行うようにな
り、1890年にはシャーマン反トラスト法が制定されて独占資本の規制も始まっ
た。1890年頃のフロンティア消滅と前後して国内市場は飽和状態となり、工業
製品の供給過剰から景気が悪化して労働者や農民の不満があらわれるようにな
ると、不況の打開策として対外進出が模索されるようになった。
1897年に大統領に就任した共和党のマッキンリーは、国内産業の保護を目的
に保護関税政策をとり、ラテンアメリカや太平洋地域への対外進出を開始し
た。アメリカは、ホセ=マルティが指導したキューバの独立運動とアメリカ
艦爆沈事件を口実として、1898年に米西戦争を起こしてこれに勝利し、講和条
約であるパリ条約でキューバの独立とフィリピン、グァム、プエルトリコのア
メリカへの割譲が決められた。この結果キューバは独立を果たしたが、プラッ
ト条項の挿入などで事実上アメリカの保護国となった。また、アメリカは1898
年にハワイを併合し、米西戦争で獲得したフィリピンでのアギナルドの独立運
動も鎮圧するなど、太平洋地域への進出を強めた。1899年、国務長官のジョン
=ヘイが門戸開放宣言を発表して門戸開放と機会平等を主張し、中国への経済
的進出も目指した。
1901年に大統領に就任した共和党のセオドア=ローズヴェルトは、内政では
革新主義をとなえ、中産層の利害を擁護して自由競争を促進する立場から、反
トラスト法を強化するなどの政策を行った。一方で帝国主義的な外交を展開
し、その強引なカリブ海政策は棍棒外交といわれた。1903年、パナマ共和国を
コロンビアから分離独立させてパナマ地峡の永久租借権を獲得し、その地にパ
ナマ運河を建設した。さらに、1905年にはドミニカを保護国化した。また、中
国市場への積極的な進出も行い、ポーツマス条約の仲介役も行った。
1913年に大統領に就任した民主党のウィルソンは「新しい自由」を掲げ、独
占資本の抑圧や婦人参政権の実現などの民主化を行った。対外的には、宣教師
外交といわれる平和的手段による海外市場の拡大につとめた。また、第一次世
界大戦に参戦し、戦後秩序の構築に大きな影響を与えるが、完全なものにはな
らなかった。
メキシコ
1877年のクーデターで政権を掌握したディアスは独裁政治を行い、メキシコ
の産業はアメリカやイギリスを中心とした外資に支配された。1910年、マデロ
が国民に武装蜂起を呼びかけてディアス政権を打倒して、1911年に大統領に就
任するが、1913年には右派のウェルタ将軍がクーデターを起こして独裁政権を
樹立した。これに対して農民を中心に支持を受けたサパタや、自由主義者や有
産主義者の支持を受けた立憲派、さらにアメリカが反独裁を掲げて独裁政府に
反抗し、翌1914年に新政府が樹立され、1917年には革命の成果として憲法が成
立した。
メキシコ革命は、ラテンアメリカ諸国で最初の反帝国主義、民主主義の革命
であった。その結果制定された憲法では広範な自由権を認め、農民のための土
地改革が盛られるとともに、労働者権利などの社会権の規定が盛られるなど、
当時としては世界で最も民主的な内容であった。もっとも、土地改革が中途半
端に終わるなどの限界もあった。
*************************************************************
2カッコ抜き
フランス
フランスは、国内市場が狭かったことや軽工業を中心に工業が発展したこと
などから、国内余剰資本の資本輸出を盛んに行ってヨーロッパの高利貸しとも
言われた。投資先の中心は東欧諸国やロシアであった。その一方で、インドシ
ナやアフリカなどにイギリスに次ぐ規模の植民地を形成し、隣国ドイツへの警
戒から、( 1 )や( 2 )といった同盟を締結して対抗した。
ナポレオン3世の失脚後、フランスの国内体制は第三共和政となるが、右派
と左派の対立や軍部の策動などもあって政情は不安定であり、1886年には元陸
軍大臣( 3 )がのクーデターを企てる( 3 )事件が起こった。1894年
の( 4 )事件ではユダヤ系将校がスパイであるとして裁かれたが、後に真
犯人が現れたために文豪のゾラが( 5 )の無罪を主張するなど社会的な波
紋が広がり、1906年に( 5 )は無罪となった。これによって軍部の権威は
失墜し、共和派の政府が支持された。
フランスでの社会主義勢力は、1871年のパリ=コミューン崩壊で衰退した。
その後合法化された労働組合活動は、その方針をめぐって穏健派と革命派に分
裂し、労働運動の中には組合の直接行動による革命を目指したサンディカリズ
ムなどの動きもあった。1901年に共和派が急進社会党を設立し、穏健な中間層
の支持を得て政権を担当した。1905年、急進社会党は政教分離法を制定してカ
トリック勢力の政治介入を排除した。同じ1905年には小市民層を支持基盤とす
るフランス社会党が結成され、その後のフランスは政治的な安定にむかった。
ドイツ
ドイツでは、ビスマルクによる保護関税政策のもとで産業革命が進展し、19
世紀末には( 6 )工業を中心とした産業が発展してイギリスをしのぐまで
になった。その過程で資本の集中と独占資本の形成が進行し、多数のカルテル
が生まれた。
1888年に( 7 )が即位し、1890年にビスマルクが辞任して親政が始まる
と、( 7 )は新航路政策を提唱して世界市場への進出を企図し、世界政策
を展開した。その結果、西アジア方面を中心に植民地獲得を強力に推進し、モ
ロッコの領有問題や3B政策などで他の列強と厳しく対立した。さらに、海軍
の軍備拡張を図って、イギリスとの対立を深めた。
ドイツでの社会主義勢力は、1860年代の経済発展に伴って勢力を伸ばした。
ラサールらの改良主義者が指導する全ドイツ労働者協会や、マルクス主義者の
ベーベルらの指導する社会民主労働者党などが生まれ、1875年には両派が合同
してドイツ社会主義者労働党が結成された。ビスマルクの時代には( 8 )
が制定されるなど弾圧されたが効果は薄く、経済の独占化が進むにつれてか
えって社会主義勢力は伸張した。1890年、ドイツ社会主義者労働党は( 9 )
と改称し、マルクス主義を掲げるエルフルト綱領を採択して第2インターナシ
ョナルの中心的勢力となった。1896年になると修正主義が台頭して政党内の路
線が転換され、( 10 )らを中心に社会民主主義の立場となって、議会を通
じた漸進的改革を指向した。後に、下院で第一党になるほど勢力を伸ばした。
ロシア
ロシアでは、1861年に農奴解放令が出されて近代化の基礎が築かれたが、依
然としてツァーリズムが維持されるなど後進的な国家であった。しかし、1890
年代に入るとフランスを中心にイギリスやドイツからも資本が流入し、都市部
を中心に大工場が建設されて重工業が発展した。しかし、国家の後進性のため
国民の生活水準は低く市場も狭かったから、生産物の市場は海外に求めること
になり、帝国主義的な政策をとるようになった。
1891年には露仏同盟を締結し、フランスからの投資で1891年にシベリア鉄道
敷設に着手した。また、1895年には日清戦争後の日本に三国干渉を行い、中国
東北部への進出を開始した。1900年からは義和団事件後の中国東北地区を占領
し、さらに朝鮮半島へと勢力を拡大しようとして日本との対立が深刻化した。
1904年に日露戦争が起こるとロシアはこれに破れ、その結果ロシアは東アジア
での南下を断念してバルカン半島での南下に力を入れた。バルカン半島はドイ
ツの3B政策やオーストリア=ハンガリー帝国の領土拡張などの舞台ともなっ
ており、そこにロシアが参入することで対立が激化して、第一次世界大戦の原
因となった。
ツァーリズムの続くロシアでは、専制的支配からの解放と労働者の生活改善
を求めて諸政党が結成された。労働者の政党はプレハーノフが持ち込んだ社会
主義思想の影響を受け、1898年にレーニンやプレハーノフらによって( 11 )
が結成された。ロシア社会民主労働党はマルクス主義政党で、激しい弾圧を受
けたために多くの指導者が亡命し、1903年には分裂した。分裂後、レーニンら
は急進的な社会主義革命を求める前衛政党の( 12 )を結成し、一方、ブ
ハーリンやマルトフらは漸進的な民主主義革命を目指して中産層などとも連携
した( 13 )を結成した。このほかに、1901年にナロードニキの流れをくむ
( 14 )が結成され、1905年には資本家や自由主義者の支持で西欧的な民主
主義を求める( 15 )が結成された。
1905年、専制と戦争下で民衆の困窮が強まり、1月22日に生活の改善要求と
国会開設の請願のため、ペテルブルクの冬宮前広場に民衆が集まった。これに
対して軍が発砲して( 16 )事件を引き起こしたことから第一革命が始ま
り、ゼネストなどの抗議運動が全国に波及し、その過程で各地にソヴィエトが
結成された。さらに、6月27日には戦艦ポチョムキン号の水兵が反乱を起こす
など、軍隊にまで革命の動きが及んだ。こうした動きの結果、ロシア政府は日
露戦争の継続を断念し、10月には立法権のあるドゥーマ(議会)の開設や憲法
の制定などを約束する( 17 )を出して革命の沈静化を図った。12月にモス
クワの労働者が武装蜂起したが、政府に鎮圧されて革命は頓挫した。1806年、
議会が開催されたが皇帝専制体制は継続され、首相の( 18 )は反動的な政
治を行った。1807年には国会が解散され、自由主義運動や革命運動は弾圧され
た。
その後、政府は( 19 )を解体して共有地を廃止し、農地の個人所有を承
認して自作農を創設した。その結果、一定程度において自作農経営が発展して
富農も現れたが、一方で多くの農民が耕作権を失ったために貧農が困窮化して
社会不安の原因となった。
アメリカ
南北戦争後のアメリカでは経済が飛躍的に発展し、1880年代には世界一の工
業国となった。アメリカではトラストを中心とした独占資本が形成され、ロッ
クフェラーのスタンダード石油やカーネギーのUSスティールなどが各々の業
界を支配した。こうした中、1886年にゴンパーズの指導下で熟練労働者を組織
した( 20 )が結成されて経済的要求を行うようになり、1890年にはシャー
マン反トラスト法が制定されるなど独占資本の規制も始まった。1890年頃のフ
ロンティア消滅と前後して国内市場は飽和状態となり、工業製品の供給過剰か
ら景気が悪化して労働者や農民の不満があらわれるようになると、不況の打開
策として対外進出が模索されるようになった。
1897年に大統領に就任した共和党の( 21 )は、国内産業の保護を目的に
保護関税政策をとり、ラテンアメリカや太平洋地域への対外進出を開始した。
アメリカは、ホセ=マルティが指導したキューバの独立運動とアメリカ艦爆
沈事件を口実として、1898年に( 22 )戦争を起こしてこれに勝利し、講和
条約であるパリ条約でキューバの独立とフィリピン、グァム、プエルトリコの
アメリカへの割譲が決められた。この結果キューバは独立を果たしたが、プラ
ット条項の挿入などで事実上アメリカの保護国となった。また、アメリカは
1898年にハワイを併合し、米西戦争で獲得したフィリピンでの( 23 )の独
立運動も鎮圧するなど、太平洋地域への進出を強めた。1899年、国務長官のジ
ョン=ヘイが( 24 )を発表して門戸開放と機会平等を主張し、中国への経
済的進出も目指した。
1901年に大統領に就任した共和党の( 25 )は、内政では革新主義をとな
え、中産層の利害を擁護して自由競争を促進する立場から、反トラスト法を強
化するなどの政策を行った。一方で帝国主義的な外交を展開し、その強引なカ
リブ海政策は棍棒外交といわれた。1903年、パナマ共和国をコロンビアから分
離独立させてパナマ地峡の永久租借権を獲得し、その地にパナマ運河を建設し
た。さらに、1905年にはドミニカを保護国化した。また、中国市場への積極的
な進出も行い、ポーツマス条約の仲介役も行った。
1913年に大統領に就任した民主党の( 26 )は「新しい自由」を掲げ、独
占資本の抑圧や婦人参政権の実現などの民主化を行った。対外的には、宣教師
外交といわれる平和的手段による海外市場の拡大につとめた。また、第一次世
界大戦に参戦し、戦後秩序の構築に大きな影響を与えるが、完全なものにはな
らなかった。
メキシコ
1877年のクーデターで政権を掌握したディアスは独裁政治を行い、メキシコ
の産業はアメリカやイギリスを中心とした外資に支配された。1910年、マデロ
が国民に武装蜂起を呼びかけてディアス政権を打倒して、1911年に大統領に就
任するが、1913年には右派のウェルタ将軍がクーデターを起こして独裁政権を
樹立した。これに対して農民を中心に支持を受けたサパタや、自由主義者や有
産主義者の支持を受けた立憲派、さらにアメリカが反独裁を掲げて独裁政府に
反抗し、翌1914年に新政府が樹立され、1917年には革命の成果として憲法が成
立した。
メキシコ革命は、ラテンアメリカ諸国で最初の反帝国主義、民主主義の革命
であった。その結果制定された憲法では広範な自由権を認め、農民のための土
地改革が盛られるとともに、労働者権利などの社会権の規定が盛られるなど、
当時としては世界で最も民主的な内容であった。もっとも、土地改革が中途半
端に終わるなどの限界もあった。
解答
1・2:露仏同盟/英仏協商(順不同) 3:ブーランジェ
4:ドレフュス 5:ドレフュス 6:重化学
7:ヴィルヘルム2世 8:社会主義者鎮圧法 9:社会民主党
10:ベルンシュタイン 11:ロシア社会民主労働党
12:ボリシェヴィキ 13:メンシェヴィキ 14:社会革命党
15:立憲民主党 16:血の日曜日 17:十月勅令(十月宣言)
18:ストルイピン 19:ミール 20:アメリカ労働総同盟(AFL)
21:マッキンリー 22:米西 23:アギナルド
24:門戸開放宣言 25:セオドア=ローズヴェルト 26:ウィルソン
*************************************************************
3一問一答
1:ドレフュス事件の際、「私は糾弾する」を発表するなどして論陣を張った
文豪は誰か
2:ボリシェヴィキの指導者となったのは誰か。
3:十月勅令の中で設置が約束された議会のことを何というか。
4:門戸開放宣言を発したアメリカ国務長官は誰か。
解答
1:ゾラ
2:レーニン
3:ドゥーマ
4:ジョン=ヘイ
*************************************************************
4ご案内
====メールマガジン関連のご案内====
ここに掲載する内容は正誤を確認してはおりますが、大量の資料を扱うため
予期せずに間違いが流れてしまうことがあります。間違いを発見なさった方
はwebmaster@sekaishi.comまでご連絡いただきたいと思います。また、
致命的な間違いは、発見され次第、訂正版をお送りいたします。
このメールマガジン内で記述された会社名・商品名は、各社の商標または登
録商標です。
※このメールマガジンに起因するいかなる損害も作者は保証いたしません
※このメールマガジンに関し、編集・発行者は著作権を主張します。
※詳しくは、http://www.sekaishi.com/support/author.html
※の「著作権について」をご覧下さい。
====ウェブサイトのご案内====
メールマガジン登録・解除(機能的です)
http://www.sekaishi.com/mailmag/tokai.html
掲示板(暫定運営中)
http://www.sekaishi.com/bbs/
バックナンバー集(全てのバックナンバーを一覧できます)
http://www.sekaishi.com/mailmag/sekamo/
更新情報
http://www.sekaishi.com/whatsnew.html
中国歴史用語変換辞書for ATOK9/ATOK11(日本語変換ライブラリ)
http://www.sekaishi.com/im/
*「ATOK」は株式会社ジャストシステムの登録商標です。
*************************************************************
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=
編集・発行:世界史猛特訓製作委員会
The World History
連絡先:webmaster@sekaishi.com
ホーム:http://www.sekaishi.com/
メルマガの登録・解除、バックナンバーのページ等があります。
このメールマガジンの著作権は編集・発行人が保持しています。
(c) 1998-2002 世界史猛特訓製作委員会
The World History
-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-= |
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □ □
|