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 世界史猛特訓  第 108 号        バックナンバー配送バージョン
 
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 もくじ
 1------本文
 2------カッコ抜き問題
 3------一問一答
 4------ご案内
 5------連絡先など
 
 
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 ************************************************************* 
 1本文
 
 ロシアの東方進出
 
  16世紀後半、イェルマークがシビル=ハン国をロシア皇帝に献上した頃から
 ロシアのシベリア進出が始まった。17世紀前半には太平洋に到達し、清との間
 での国境の設定と通商を取り決めるためにネルチンスク条約とキャフタ条約を
 結んだ。18世紀、ロシアの探検はベーリング地方に達し、カムチャッカ半島や
 アラスカにもその領域を広げた。
 
  1847年、東シベリア総督に就任したムラヴィヨフはアムール川(黒竜江)河
 岸に進出し、1858年のアイグン条約でアムール川以北を獲得してロシア領とし
 た。さらに1860年の北京条約ではウスリー川の東に位置する沿海州を獲得し、
 その地にウラジヴォストークを建設した。。
 
  1792年、ラクスマンが根室に来航するなど、ロシアは日本にも訪れた。1855
 年の日露和親条約で択捉島以南を日本領とすることが決められ、1875年の千島
 樺太交換条約では樺太をロシア領とする代わりにウルップ島以北の千島列島を
 日本領とすることが決められた。
 
  これと並行してロシアは中央アジア方面での南下も図った。1828年のトルコ
 マンチャーイ条約でイラン方面に進出していっそう南下を進め、イギリスと対
 立した。19世紀半ばにはウズベク系の三ハン国を保護国化してロシア領トルキ
 スタンを成立させ、イスラム教徒の反乱に乗じてイリ地方に進出し、イリ条約
 でイリ地方を中国から獲得した。
 
 
 中国
 
  清朝は乾隆帝の時代にかけて繁栄を続けたが、18世紀後半になると大遠征に
 よる財政赤字の拡大や官僚の腐敗が深刻化し、また、増大した人口に対して土
 地が不足するようになった。この結果民衆は疲弊し、各地で反乱や暴動が相次
 ぐようになった。1796年に白蓮教徒の乱が起こると、清はその鎮圧に膨大な戦
 費を費やしていっそうの財政困難に陥り、鎮圧に手間取ったことで清の軍事力
 の弱体化を露呈した。
 
  この頃、清朝にもヨーロッパ勢力が進出してきていた。18世紀末には、イギ
 リスの東インド会社が中国貿易を独占し、広州一港での公行の独占のもとで朝
 貢貿易の形式で貿易が行われていた。こうした状況の中、産業革命が進展した
 イギリスは中国にも工業製品の市場を求めるようになり、使節を派遣して自由
 貿易を要求した。1892年から1794年にかけてはマカートニーが使節として派遣
 されて乾隆帝に謁見するが交渉はまとまらず、1816年はアマーストが使節とし
 て派遣されるが儀礼を拒否して会談できなかった。1834年、イギリスでは東イ
 ンド会社の貿易独占権が廃止されると、イギリスの自由貿易の要求は一層高
 まった。
 
  また、イギリスでは中国との貿易関係も問題となっていた。従来、イギリス
 と中国の貿易は中国からの茶などに対してイギリスが銀を支払う片貿易であっ
 たから、イギリスで喫茶が流行するなどして茶の需要が増大すると大量の銀が
 イギリスから流出した。18世紀末からこうした状況を是正しようとする動きが
 出て、イギリス・インド・中国の三角貿易がはじまった。三角貿易では中国か
 らイギリスに茶や絹が、イギリスからインドに綿布が、そしてインドから中国
 にアヘンが流れ、銀は逆向きに回転した。
 
  アヘンの流入によって清からは大量の銀が流出し、それによる銀価の高騰が
 経済混乱や財政危機をもたらすとともに、アヘン流行による社会混乱も深刻と
 なった。アヘンの禁止を行っていた清朝は対応を迫られ、1839年に清の道光帝
 が林則徐を欽差大臣として広州に派遣して取り締まりにあたらせた。林則徐は
 アヘンの没収廃棄やイギリス商人の一般貿易の禁止などの強硬な措置をとった
 が、イギリスはこれを機に自由貿易を実現しようとし、国内資本家の支持を取
 り付けて軍の派遣を決定してアヘン戦争をおこした。
 
  1840年からのアヘン戦争では、和約交渉の決裂後イギリスが次々と勝利を収
 め、イギリス艦隊が南京に迫ったために清は屈服して南京条約を結んだ。1842
 年の南京条約では、上海・寧波・福州・廈門・広州の5港を開港するするこ
 と、香港島をイギリスに割譲すること、公行を廃止すること、賠償金を支払う
 ことが盛り込まれた。翌1843年の五港通商章程と虎門寨追加条約では領事裁判
 権を承認すること、関税に関する協定、片務的最恵国待遇の承認などが盛り込
 まれ、明確な不平等条約となった。1844年、アメリカとの望厦条約、フランス
 との黄埔条約でも同様の内容が盛り込まれた。こうした不平等条約によって中
 国の半植民地化がはじまり、中国は列強諸国の従属的な市場となっていった。
 
  なお、1841年に広州の清軍が降伏した際に三元里の住民が平英団という自営
 組織を作ってイギリス軍を攻撃する事件をおこした。
 
  アヘン戦争後もイギリス側の期待ほど中国貿易は伸びず、中国側の条約違反
 も続発したため、イギリスは貿易拡大のため中央政府との直接交渉を要求して
 条約改定を申し入れたが拒否された。そのためイギリスは条約改定の機会を
 うかがっていたが、1856年に清朝の官憲によってイギリス船籍のアロー号船員
 が逮捕されるというアロー号事件が起こった。イギリスはこれを口実に、フラ
 ンス人宣教師殺害事件で清に抗議していたフランスをさそって、中国に共同出
 兵してアロー戦争をおこした。英仏軍は広州を占領後天津にせまり、1858年に
 天津条約を結ぶが翌年清朝がこの批准を武力で阻止したために戦争は再開し、
 1860年に英仏軍は北京を占領して略奪行為を行った。この際、円明園は英仏軍
 に襲撃されて廃墟となった。1860年の北京条約によってアロー戦争は終結し
 た。
 
  1858年の天津条約では、沿岸各地や長江流域の港を新たに開港すること、外
 国人公使の北京駐在を認めること、キリスト教の布教と信仰の自由を保障する
 こと、外国人の内地旅行の自由を認めること、賠償金を支払うことなどが盛り
 込まれた。1860年の北京条約には、天津条約での開港地に加えて天津も開港す
 ること、九竜半島の一部をイギリスに割譲すること、賠償金を増額すること、
 沿海州をロシアに割譲することなどが盛り込まれた。この結果、中国市場はほ
 ぼ全面的に開放されて列国の経済進出が本格化し、清朝は北京の公使駐在でよ
 り直接的な圧力を受けるようになった。清は外務事務を処理する総理衙門を設
 置した。
 
  アヘン戦争後、中国国内では列強の租界が形成されるなど列強の進出がいっ
 そう強まり、外国製品の流入で国内産業は打撃を受けた。さらに、キリスト教
 の布教や西欧諸の文物が流入したことで中華思想も動揺を来し、重税や経済問
 題などで民衆は不満を強めた。政府の統制力も弱まったためにこのころの中国
 では反乱や暴動が相次いだ。
 
  こうした中で起こった反乱が太平天国の乱である。1843年に上帝会を組織し
 た洪秀全は、1851年に広東省金田村で挙兵し(金田挙義)、長江流域に進出す
 る途上で太平天国と称した。1853年、南京を占領して天京と改称し、さらに華
 北方面への進出を企てた。太平天国は滅満興漢を掲げ、弁髪の廃止や男女平
 等、アヘンや纏足の禁止を行うとともに、実施はされなかったが天朝田畝制と
 いう土地均分政策を計画した。
 
  太平天国の乱を清朝は鎮圧することができず、地方に地盤を持つ官僚や郷紳
 が自ら郷勇を組織して鎮圧の中心となった。その中でも、曾国藩が湖南省でお
 こした湘勇と、李鴻章が安徽省で組織した淮勇が知られる。また、1860年の北
 京条約後は列強諸国も清朝を援助し、ウォードやゴードンらが指揮した常勝軍
 が鎮圧にあたった。太平天国は指導層内部の対立や腐敗から内外の支持を失う
 とともに、外部からは郷勇・常勝軍の攻撃にさらされて軍事的に劣勢となり、
 1864年に湘勇によって天京が陥落すると洪秀全は自殺して太平天国は滅んだ。
 しかし、太平天国の乱は鎮圧されたもののこの乱によって清朝の弱体化が露呈
 され、一方で義勇軍を率いた漢人の政治的地位が上昇して政府内で要職を占め
 る契機となった。また、この乱は反満的な民族運動であると同時に反侵略運動
 としての明確な理念と思想を持った組織的なもので、その後の中国の民族運動
 に大きな影響を与えた。
 
  1861年に同治帝が即位すると、総理衙門を設置して列強との協調をはかり、
 国内でも安定をはかって、このころのヨーロッパ情勢もあって中国の列強支配
 は一時的に小康状態となった。このころのことをさして、同治中興という。同
 治帝の生母が西太后で、このころから摂政となり、次の光緒帝のころにかけて
 権勢をふるった。
 
  このころ、ヨーロッパ文化の導入と富国強兵を目指した洋務運動が展開さ
 れ、中体西用を掲げて伝統的な体制を維持しながらの国力増強を目指した。曾
 国藩や李鴻章、左宗棠や張之洞らの洋務派官僚が西洋の近代技術の導入と軍事
 の近代化、国内の工業化を行った。しかし、洋務運動は保守的な立場から西洋
 の技術を導入するにとどまり、清仏戦争や日清戦争での敗北がその失敗を決定
 づけた。また、近代的兵器で武装した新軍や近代的工場が洋務派官僚によって
 私有化され、後にこれが軍閥化した。
 
 
 *************************************************************
 2カッコ抜き
 
 ロシアの東方進出
 
  16世紀後半、イェルマークがシビル=ハン国をロシア皇帝に献上した頃から
 ロシアのシベリア進出が始まった。17世紀前半には太平洋に到達し、清との間
 での国境の設定と通商を取り決めるために( 1 )条約と( 2 )条約を
 結んだ。18世紀、ロシアの探検はベーリング地方に達し、カムチャッカ半島や
 アラスカにもその領域を広げた。
 
  1847年、東シベリア総督に就任した( 3 )はアムール川(黒竜江)河岸
 に進出し、1858年の( 4 )条約でアムール川以北を獲得してロシア領とし
 た。さらに1860年の北京条約ではウスリー川の東に位置する沿海州を獲得し、
 その地に( 5 )を建設した。。
 
  1792年、ラクスマンが根室に来航するなど、ロシアは日本にも訪れた。1855
 年の日露和親条約で択捉島以南を日本領とすることが決められ、1875年の千島
 樺太交換条約では樺太をロシア領とする代わりにウルップ島以北の千島列島を
 日本領とすることが決められた。
 
  これと並行してロシアは中央アジア方面での南下も図った。1828年のトルコ
 マンチャーイ条約でイラン方面に進出していっそう南下を進め、イギリスと対
 立した。19世紀半ばにはウズベク系の三ハン国を保護国化してロシア領トルキ
 スタンを成立させ、イスラム教徒の反乱に乗じて( 6 )地方に進出し、
 ( 6 )条約で( 6 )地方を中国から獲得した。
 
 
 中国
 
  清朝は乾隆帝の時代にかけて繁栄を続けたが、18世紀後半になると大遠征に
 よる財政赤字の拡大や官僚の腐敗が深刻化し、また、増大した人口に対して土
 地が不足するようになった。この結果民衆は疲弊し、各地で反乱や暴動が相次
 ぐようになった。1796年に( 7 )の乱が起こると、清はその鎮圧に膨大な
 戦費を費やしていっそうの財政困難に陥り、鎮圧に手間取ったことで清の軍事
 力の弱体化を露呈した。
 
  この頃、清朝にもヨーロッパ勢力が進出してきていた。18世紀末には、イギ
 リスの東インド会社が中国貿易を独占し、広州一港での公行の独占のもとで朝
 貢貿易の形式で貿易が行われていた。こうした状況の中、産業革命が進展した
 イギリスは中国にも工業製品の市場を求めるようになり、使節を派遣して自由
 貿易を要求した。1892年から1794年にかけては( 8 )が使節として派遣さ
 れて乾隆帝に謁見するが交渉はまとまらず、1816年はアマーストが使節として
 派遣されるが儀礼を拒否して会談できなかった。1834年、イギリスでは東イン
 ド会社の貿易独占権が廃止されると、イギリスの自由貿易の要求は一層高まっ
 た。
 
  また、イギリスでは中国との貿易関係も問題となっていた。従来、イギリス
 と中国の貿易は中国からの茶などに対してイギリスが銀を支払う片貿易であっ
 たから、イギリスで喫茶が流行するなどして茶の需要が増大すると大量の銀が
 イギリスから流出した。18世紀末からこうした状況を是正しようとする動きが
 出て、イギリス・インド・中国の三角貿易がはじまった。三角貿易では中国か
 らイギリスに茶や絹が、イギリスからインドに綿布が、そしてインドから中国
 に( 9 )が流れ、銀は逆向きに回転した。
 
  アヘンの流入によって清からは大量の銀が流出し、それによる銀価の高騰が
 経済混乱や財政危機をもたらすとともに、アヘン流行による社会混乱も深刻と
 なった。アヘンの禁止を行っていた清朝は対応を迫られ、1839年に清の道光帝
 が( 10 )を欽差大臣として広州に派遣して取り締まりにあたらせた。林則
 徐はアヘンの没収廃棄やイギリス商人の一般貿易の禁止などの強硬な措置を
 とったが、イギリスはこれを機に自由貿易を実現しようとし、国内資本家の支
 持を取り付けて軍の派遣を決定して( 11 )をおこした。
 
  1840年からの( 11 )では、和約交渉の決裂後イギリスが次々と勝利を収
 め、イギリス艦隊が南京に迫ったために清は屈服して南京条約を結んだ。1842
 年の南京条約では、上海・寧波・福州・廈門・広州の5港を開港するするこ
 と、( 12 )をイギリスに割譲すること、公行を廃止すること、賠償金を支
 払うことが盛り込まれた。翌1843年の五港通商章程と虎門寨追加条約では
 ( 13 )を承認すること、関税に関する協定、片務的最恵国待遇の承認など
 が盛り込まれ、明確な不平等条約となった。1844年、アメリカとの( 14 )
 条約、フランスとの( 15 )条約でも同様の内容が盛り込まれた。こうした
 不平等条約によって中国の半植民地化がはじまり、中国は列強諸国の従属的な
 市場となっていった。
 
  なお、1841年に広州の清軍が降伏した際に三元里の住民が( 16 )という
 自営組織を作ってイギリス軍を攻撃する事件をおこした。
 
  アヘン戦争後もイギリス側の期待ほど中国貿易は伸びず、中国側の条約違反
 も続発したため、イギリスは貿易拡大のため中央政府との直接交渉を要求して
 条約改定を申し入れたが拒否された。そのためイギリスは条約改定の機会をう
 かがっていたが、1856年に清朝の官憲によってイギリス船籍のアロー号船員が
 逮捕されるというアロー号事件が起こった。イギリスはこれを口実に、フラン
 ス人宣教師殺害事件で清に抗議していたフランスをさそって、中国に共同出兵
 してアロー戦争をおこした。英仏軍は広州を占領後天津にせまり、1858年に
 ( 17 )条約を結ぶが翌年清朝がこの批准を武力で阻止したために戦争は再
 開し、1860年に英仏軍は北京を占領して略奪行為を行った。この際、円明園は
 英仏軍に襲撃されて廃墟となった。1860年の北京条約によってアロー戦争は終
 結した。
 
  1858年の( 17 )条約では、沿岸各地や長江流域の港を新たに開港するこ
 と、外国人公使の北京駐在を認めること、キリスト教の布教と信仰の自由を保
 障すること、外国人の内地旅行の自由を認めること、賠償金を支払うことなど
 が盛り込まれた。1860年の北京条約には、( 17 )条約での開港地に加えて
 ( 18 )も開港すること、( 19 )の一部をイギリスに割譲すること、賠
 償金を増額すること、沿海州をロシアに割譲することなどが盛り込まれた。こ
 の結果、中国市場はほぼ全面的に開放されて列国の経済進出が本格化し、清朝
 は北京の公使駐在でより直接的な圧力を受けるようになった。清は外務事務を
 処理する総理衙門を設置した。
 
  アヘン戦争後、中国国内では列強の租界が形成されるなど列強の進出がいっ
 そう強まり、外国製品の流入で国内産業は打撃を受けた。さらに、キリスト教
 の布教や西欧諸の文物が流入したことで中華思想も動揺を来し、重税や経済問
 題などで民衆は不満を強めた。政府の統制力も弱まったためにこのころの中国
 では反乱や暴動が相次いだ。
 
  こうした中で起こった反乱が( 20 )の乱である。1843年に( 21 )を
 組織した洪秀全は、1851年に広東省金田村で挙兵し(金田挙義)、長江流域に
 進出する途上で( 20 )と称した。1853年、南京を占領して天京と改称し、
 さらに華北方面への進出を企てた。太平天国は( 22 )を掲げ、弁髪の廃止
 や男女平等、アヘンや纏足の禁止を行うとともに、実施はされなかったが
 ( 23 )という土地均分政策を計画した。
 
  太平天国の乱を清朝は鎮圧することができず、地方に地盤を持つ官僚や郷紳
 が自ら( 24 )を組織して鎮圧の中心となった。その中でも、曾国藩が湖南
 省でおこした( 25 )と、李鴻章が安徽省で組織した( 26 )が知られ
 る。また、1860年の北京条約後は列強諸国も清朝を援助し、ウォードやゴード
 ンらが指揮した常勝軍が鎮圧にあたった。太平天国は指導層内部の対立や腐敗
 から内外の支持を失うとともに、外部からは郷勇・常勝軍の攻撃にさらされて
 
 軍事的に劣勢となり、1864年に湘勇によって天京が陥落すると洪秀全は自殺し
 て太平天国は滅んだ。しかし、太平天国の乱は鎮圧されたもののこの乱によっ
 て清朝の弱体化が露呈され、一方で義勇軍を率いた漢人の政治的地位が上昇し
 て政府内で要職を占める契機となった。また、この乱は反満的な民族運動であ
 ると同時に反侵略運動としての明確な理念と思想を持った組織的なもので、そ
 の後の中国の民族運動に大きな影響を与えた。
 
  1861年に同治帝が即位すると、総理衙門を設置して列強との協調をはかり、
 国内でも安定をはかって、このころのヨーロッパ情勢もあって中国の列強支配
 は一時的に小康状態となった。このころのことをさして、同治中興という。同
 治帝の生母が( 27 )で、このころから摂政となり、次の光緒帝のころにか
 けて権勢をふるった。
 
  このころ、ヨーロッパ文化の導入と富国強兵を目指した( 28 )運動が展
 開され、( 29 )を掲げて伝統的な体制を維持しながらの国力増強を目指し
 た。曾国藩や李鴻章、左宗棠や張之洞らの洋務派官僚が西洋の近代技術の導入
 と軍事の近代化、国内の工業化を行った。しかし、洋務運動は保守的な立場か
 ら西洋の技術を導入するにとどまり、清仏戦争や日清戦争での敗北がその失敗
 を決定づけた。また、近代的兵器で武装した新軍や近代的工場が洋務派官僚に
 よって私有化され、後にこれが軍閥化した。
 
 
 
 解答
 1:ネルチンスク   2:キャフタ   3:ムラヴィヨフ
 4:アイグン   5:ウラジヴォストーク   6:イリ
 7:白蓮教徒   8:マカートニー   9:アヘン   10:林則徐
 11:アヘン戦争   12:香港島   13:領事裁判権   14:望厦
 15:黄埔   16:平英団   17:天津   18:天津   19:九竜半島
 20:太平天国   21:上帝会(拝上帝会)   22:滅満興漢
 23:天朝田畝制   24:郷勇   25:湘勇   26:淮勇
 27:西太后   28:洋務   29:中体西用
 
 *************************************************************
 3一問一答
 
 1:1858年のアイグン条約でロシアが獲得したのはどこの地域か。
 2:ロシアがウスリー川以東を獲得したのは何条約か。
 3:1842年に結ばれたアヘン戦争の講和条約は何か。
 4:1843年に結ばれた、「3」の条約の追加条約は何か。
 5:1860年に結ばれたアロー戦争後の講和条約は何か。
 6:上帝会を組織し、後に太平天国の乱の指導者となったのは誰か。
 7:湘勇を組織したのは誰か。
 8:淮勇を組織したのは誰か。
 9:アロー戦争後の1861年に設置された、清の対外事務を行う官庁を何という
   か。
 
 解答
 1:アムール川以北
 2:北京条約
 3:南京条約
 4:虎門寨追加条約
 5:北京条約
 6:洪秀全
 7:曾国藩
 8:李鴻章
 9:総理衙門(総理各国事務衙門)
 
 *************************************************************
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