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世界史猛特訓 第 106 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
イラン・アフガニスタン
イランでは、サファヴィー朝の滅亡後にナーディル=シャーによってアフシ
ャール朝が建てられ、1750年にはゼンド朝が建てられた。アーガー=ムハンマ
ドがゼンド朝を倒してカージャール朝をたて、イランの統一を果たした。19世
紀初頭、南下政策を進めるロシアがカフカスを併合したため、カージャール朝
はロシアとカフカスを巡って抗争したが破れ、トルコマンチャーイ条約でロシ
アへのアルメニアの割譲やロシア人への治外法権の承認などを認めさせられ
た。こうした混乱の中で、サイイド=アリ=ムハンマドがシーア派の改革を主
張して創始したバーブ教が反乱を起こたが、鎮圧された。
1838年、イギリスは第一次アフガン戦争を起こしてアフガニスタンの支配を
狙ったが破れ、進出は失敗した。1856年、イランはロシアの支援を得てアフガ
ニスタンに侵攻したが、ロシアの南下をおそれたイギリスがイランに介入し、
イランにアフガニスタンの独立を認めさせた。イランはイギリスへの治外法権
と商業利権も承認させられ、イギリスとロシアの対立を背景として両国の圧迫
に苦しむこととなった。ロシアの南下を懸念したイギリスは、インド支配をよ
り確実なものにするために第二次アフガン戦争を引き起こし、1881年、ついに
アフガニスタンを保護国化した。
1890年、イラン国王がイギリス商人に煙草の独占利権を譲渡したことをきっ
かけに、国王の専制と外国搾取に反対する国民運動が起こり、アフガーニーの
思想の影響を受けてタバコ=ボイコット運動が展開された。イランではやがて
立憲運動が起こり、立憲革命により1906年に立憲君主国となった。
イギリスのインド支配
17世紀末、アウラングゼーブ帝のもとでムガル帝国は領土を最大とするが、
強硬なイスラム化政策をとったためにラージプートの支持を失い、マラータ族
やシク教徒の反乱を招いた。アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は地方政権
の自立と抗争によって分裂し、その勢力は衰退を続けた。一方、インドに進出
してきたヨーロッパ勢力は、イギリスとフランスの東インド会社が根拠地を建
設して相互に抗争して利権を争った。その結果、インド南東部ではカーナティ
ック戦争で、ベンガル地方ではプラッシーの戦いで、それぞれイギリスが勝利
してインドでの勢力を固めた。
1864年、イギリスはブクサールの戦いでムガル皇帝と地方政権の連合軍に勝
利し、翌1865年、ベンガル地方におけるディワーニーを獲得して地域での徴税
権や司法権を持って、東インド会社によるベンガル地方の植民地化が始まっ
た。1767年からの4次にわたるマイソール戦争でイギリスはヒンドゥー系のマ
イソール王国を滅ぼして南インドを獲得した。さらに、1875年からの3次に渡
る、マラータ戦争ではマラータ同盟を破ってインドの中央部を獲得し、1815年
までにセイロン全土を占領して植民地とした。1845年からのシク戦争でシク教
徒を平定して西北インドも支配下となった。こうして、イギリスは全インドを
支配するに至り、ムガル帝国は名目化した。
イギリスは、インド統治の初期段階では伝統的な土地所有関係を認めて土着
の機構を利用していたが、後に新しい徴税機構と地税制度を採用した。ベンガ
ル地方などでは大地主の所有権を認めて地主に徴税を請け負わせるザミンダー
リ制が導入され、南インドなどでは小農民の所有権を認めて納税責任を課すラ
イヤットワーリー制が導入された。こうした制度の導入により、イギリスの植
民地支配と搾取が進んだ。
イギリスは、綿布や香辛料などをインドから輸入する時代が続いていたが、
産業革命を期にイギリス国内で綿工業が発達するとこの関係が逆転し、イギリ
スでは安価な機械織り綿布が大量に生産されるようになった。イギリスはイン
ドに対してこれらの製品を購入するよう強制したため、インドの伝統的な綿工
業は壊滅的な打撃を受け、綿布の輸入国に転落した。この後、インドは商品作
物の栽培地と工業製品の市場としての役割を担うこととなった。
こうした経済的搾取によってインド国内の伝統的手工業は壊滅的な打撃を受
け、自給的な経済体制は崩壊した。さらに、支配体制の整備のための鉄道や通
信の整備費用、軍事費などのためにインドは重税を賦課され、藩王国も従属化
同盟によってイギリスに従属した。こうした搾取によってイギリスには富が集
中し、一方でインドの貧困化が進んだ。
19世紀半ば、こうしたイギリスのインド支配に対してインド人の各階層の反
英感情が高まった。1857年、メラートでシパーヒーが暴動を起こしたことを
きっかけに、反乱が全国に波及して国民の各階層が参加してイギリスの支配に
反対し、デリーを占領してムガル皇帝の統治復活を宣言するに至った。しか
し、この反乱は全国的な規模に及んだにもかかわらず指導者が不在で、その活
動は組織的ではなかった。1858年、イギリスはこの乱をほぼ鎮圧してムガル皇
帝を廃位し、東インド会社を解散してインドはイギリスの直接支配に移行し、
1859年、シパーヒーの乱は完全に鎮圧された。この結果、有名無実化していた
ムガル帝国はついに滅亡し、イギリスのインド支配が完成に向かった。
1877年、イギリス国王がインド皇帝を称するようになり、英領インド帝国が
成立した。その統治は、インド皇帝のもとにインド総督がおかれ、その下に植
民地政庁が直轄する直轄領と、イギリスの保護下に存続を認められた藩王国と
がおかれるという複雑なものだった。
イギリスはインド周辺の地域にも進出し、インド支配の安定を図ろうとし
た。1881年、第二次アフガン戦争の末にアフガニスタンを保護国化し、1886年
にはビルマをインド帝国に編入した。
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2カッコ抜き
イラン・アフガニスタン
イランでは、サファヴィー朝の滅亡後にナーディル=シャーによってアフシ
ャール朝が建てられ、1750年にはゼンド朝が建てられた。アーガー=ムハンマ
ドがゼンド朝を倒して( 1 )朝をたて、イランの統一を果たした。19世紀
初頭、南下政策を進めるロシアがカフカスを併合したため、( 1 )朝はロ
シアとカフカスを巡って抗争したが破れ、( 2 )条約でロシアへのアルメ
ニアの割譲やロシア人への治外法権の承認などを認めさせられた。こうした混
乱の中で、サイイド=アリ=ムハンマドがシーア派の改革を主張して創始した
( 3 )教が反乱を起こたが、鎮圧された。
1838年、イギリスは第一次( 4 )戦争を起こしてアフガニスタンの支配
を狙ったが破れ、進出は失敗した。1856年、イランはロシアの支援を得てアフ
ガニスタンに侵攻したが、ロシアの南下をおそれたイギリスがイランに介入
し、イランにアフガニスタンの独立を認めさせた。イランはイギリスへの治外
法権と商業利権も承認させられ、イギリスとロシアの対立を背景として両国の
圧迫に苦しむこととなった。ロシアの南下を懸念したイギリスは、インド支配
をより確実なものにするために第二次( 4 )戦争を引き起こし、1881年、
ついにアフガニスタンを保護国化した。
1890年、イラン国王がイギリス商人に煙草の独占利権を譲渡したことをきっ
かけに、国王の専制と外国搾取に反対する国民運動が起こり、アフガーニーの
思想の影響を受けて( 5 )運動が展開された。イランではやがて立憲運動
が起こり、立憲革命により1906年に立憲君主国となった。
イギリスのインド支配
17世紀末、アウラングゼーブ帝のもとでムガル帝国は領土を最大とするが、
強硬なイスラム化政策をとったためにラージプートの支持を失い、マラータ族
やシク教徒の反乱を招いた。アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は地方政権
の自立と抗争によって分裂し、その勢力は衰退を続けた。一方、インドに進出
してきたヨーロッパ勢力は、イギリスとフランスの東インド会社が根拠地を建
設して相互に抗争して利権を争った。その結果、インド南東部ではカーナティ
ック戦争で、ベンガル地方では( 6 )の戦いで、それぞれイギリスが勝利
してインドでの勢力を固めた。
1864年、イギリスはブクサールの戦いでムガル皇帝と地方政権の連合軍に勝
利し、翌1865年、ベンガル地方におけるディワーニーを獲得して地域での徴税
権や司法権を持って、東インド会社によるベンガル地方の植民地化が始まっ
た。1767年からの4次にわたる( 7 )戦争でイギリスはヒンドゥー系の
( 7 )王国を滅ぼして南インドを獲得した。さらに、1875年からの3次に
渡る、( 8 )戦争では( 8 )同盟を破ってインドの中央部を獲得し、
1815年までにセイロン全土を占領して植民地とした。1845年からの( 9 )
戦争で( 9 )教徒を平定して西北インドも支配下となった。こうして、イ
ギリスは全インドを支配するに至り、ムガル帝国は名目化した。
イギリスは、インド統治の初期段階では伝統的な土地所有関係を認めて土着
の機構を利用していたが、後に新しい徴税機構と地税制度を採用した。ベンガ
ル地方などでは大地主の所有権を認めて地主に徴税を請け負わせる( 10 )
制が導入され、南インドなどでは小農民の所有権を認めて納税責任を課すライ
ヤットワーリー制が導入された。こうした制度の導入により、イギリスの植民
地支配と搾取が進んだ。
イギリスは、綿布や香辛料などをインドから輸入する時代が続いていたが、
産業革命を期にイギリス国内で綿工業が発達するとこの関係が逆転し、イギリ
スでは安価な機械織り綿布が大量に生産されるようになった。イギリスはイン
ドに対してこれらの製品を購入するよう強制し、インドは綿布の輸入国に転落
した。この後、インドは商品作物の栽培地と工業製品の市場としての役割を担
うこととなった。
こうした経済的搾取によってインド国内の伝統的手工業は壊滅的な打撃を受
け、自給的な経済体制は崩壊した。さらに、支配体制の整備のための鉄道や通
信の整備費用、軍事費などのためにインドは重税を賦課され、藩王国も従属化
同盟によってイギリスに従属した。こうした搾取によってイギリスには富が集
中し、一方でインドの貧困化が進んだ。
19世紀半ば、こうしたイギリスのインド支配に対してインド人の各階層の反
英感情が高まった。1857年、メラートで( 11 )が暴動を起こしたことを
きっかけに、反乱が全国に波及して国民の各階層が参加してイギリスの支配に
反対し、デリーを占領してムガル皇帝の統治復活を宣言するに至った。しか
し、この反乱は全国的な規模に及んだにもかかわらず指導者が不在で、その活
動は組織的ではなかった。1858年、イギリスはこの乱をほぼ鎮圧してムガル皇
帝を廃位し、東インド会社を解散してインドはイギリスの直接支配に移行し、
1859年、シパーヒーの乱は完全に鎮圧された。この結果、有名無実化していた
ムガル帝国はついに滅亡し、イギリスのインド支配が完成に向かった。
1877年、イギリス国王がインド皇帝を称するようになり、( 12 )が成立
した。その統治は、インド皇帝のもとにインド総督がおかれ、その下に植民地
政庁が直轄する直轄領と、イギリスの保護下に存続を認められた藩王国とがお
かれるという複雑なものだった。
イギリスはインド周辺の地域にも進出し、インド支配の安定を図ろうとし
た。1881年、第二次( 4 )戦争の末にアフガニスタンを保護国化し、
1886年にはビルマをインド帝国に編入した。
解答
1:カージャール 2:トルコマンチャーイ 3:バーブ
4:アフガン 5:タバコ=ボイコット 6:プラッシー
7:マイソール 8:マラータ 9:シク 10:ザミンダーリ
11:シパーヒー 12:英領インド帝国
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3一問一答
1:イギリスとフランスが南インドの東岸地帯で覇権をめぐって争い、1763年
にイギリスの勝利に終わった戦争は何か。
2:英領インド帝国成立時の皇帝となったのはだれか。
1:カーナティック戦争
2:ヴィクトリア女王
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