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世界史猛特訓 第 105 号 バックナンバー配送バージョン
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もくじ
1------本文
2------カッコ抜き問題
3------一問一答
4------ご案内
5------連絡先など
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1本文
ヨーロッパのアジア進出
17世紀から18世紀にかけて、アジアでは専制王朝が最盛期を迎えていた。一
方、ヨーロッパ諸国はアジア各国の沿岸の要地に商館を建設するなどして拠点
化し、重商主義政策のもとでアジアの特産品輸入に力を入れる一方、相互の文
化交流も見られた。19世紀、アジアの専制王朝は次々と衰退していき、産業革
命を遂げて巨大な生産力を持ったヨーロッパは、原材料の供給地と製品の市場
を求めてアジア諸国の領土的支配を目指し、この地域への武力進出を推進し
た。この結果、アジア各国は主権を喪失して植民地化され、政治的にヨーロッ
パへの従属を余儀なくされた。
こうした過程で、ヨーロッパから安価で高品質な工業製品が大量に流入した
ため、アジア各国の国内産業は破壊された。一方で、原料作物や嗜好品の単一
栽培が導入、あるいは強制されたため、経済がモノカルチャー化して自国の食
料供給にも事欠く地域もあらわれ、本来経済的に自給が可能であったアジア諸
国は経済的にもヨーロッパに従属するようになった。
オスマン帝国の衰退
オスマン帝国は第2回ウィーン包囲以後衰退を続けた。国内では、地方の離
反や自立傾向が強まり、支配下の他民族による民族反乱も起こった。また、イ
ェニチェリが暴力集団化して専横をきわめたり、宮廷内の抗争が激化したりし
た。一方で国外では、インド航路の開拓によってヨーロッパとアジアが直接貿
易するようになり、中継貿易の利を失って貿易利益が減少した上、カピチュ
レーションがしだいに不平等条約化していくなどの困難をかかえた。こうした
内憂外患のために18世紀には急激に衰退し、19世紀にはヨーロッパから瀕死の
重病人と呼ばれるまでになった。
1683年、第2回ウィーン包囲の失敗後、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条
約でオスマントルコはハンガリーをオーストリアに割譲した。これをきっかけ
にバルカン半島でのオスマン帝国支配は縮小を続け、一方でこの地域でのオー
ストリアの覇権が確立した。18世紀、オスマン帝国はロシアやオーストリアの
侵攻にさらされ、敗北を重ねたために黒海沿岸地域やバルカンの一部の割譲を
強いられた。18世紀前半、メフメト3世が西欧文化の摂取に努め、富国強兵を
はかったいわゆるチューリップ時代があったが、これも失敗に終わり、オスマ
ン帝国は衰退を続けた。19世紀、領内の諸民族が離反して独立に動き出した。
ギリシアは独立し、バルカン半島ではスラヴ系諸民族の民族主義が台頭した。
エジプトは自立し、アラビア半島やシリアではアラブの民族主義が高揚した。
また、こうした民族運動にヨーロッパ諸国が介入して東方問題が起こり、この
地域での国際紛争は絶えなかった。
衰退を続けるオスマン帝国では現状を打破するため改革が試みられた。19世
紀初頭、マフムト2世はイェニチェリ軍団の廃止や大土地所有の抑圧などを通
じてスルタンへの権力集中を図り、西欧化政策を開始した。1839年に即位した
アブデュル=メジト1世はギュルハネ勅令を発してタンジマートを開始し、宰
相のムスタファ=レシト=パシャの手によって上からの近代改革が行われた。
これ以後、1870年代までの間に行政機構改革や法律改革、近代的学校の創設や
国費留学生の派遣、国民皆兵制の導入などが行われたが、過度の借款の増加で
自由を失った財政が足かせとなった。1860年代、相次ぐ戦争などのために膨張
した列強からの借款はついに返済不可能となって財政は破綻し、1875年にはイ
ギリス・フランスによる経済的支配が始まって半植民地化した。
1876年、宰相のミドハト=パシャがミドハト憲法を発布し、二院制議会や責
任内閣制などを定めて立憲君主政の政体を目指した。しかし、1877年に露土戦
争が勃発すると、アブデュル=ハミト2世は憲法を停止して専制を復活させ、
戦争を行った。結局オスマンは戦争に敗れ、1878年のベルリン条約でヨーロッ
パ側領土の大部分を失った。その後、トルコ国内では自由主義運動が展開さ
れ、青年将校や知識人、学生などが青年トルコ党を結成して憲法の復活を求め
た。1908年、青年トルコ革命(サロニカ革命)でミドハト憲法の復活は実現
し、青年トルコは第一次大戦末まで政権を担った。
アラブの民族主義
オスマンの衰退に伴って、アラビア半島でも自立を目指す動きが出た。18世
紀半ば、イスラム原理主義運動の一つとしてワッハーブ派の運動が起こり、イ
ヴン=アブド=アルワッハーブがコーランの尊重によるイスラムの原点回帰を
提唱した。1744年頃、土豪ムハンマド=ブン=サウードや民衆の支持によって
ワッハーブ王国が建設され、メッカ、メディナを占領してシリアにも進出し
た。これに対してオスマン帝国はエジプトのムハンマド=アリーを派遣して討
伐し、1818年にワッハーブ王国は滅亡した。1902年、サウド家の勢力がリャド
を中心に近隣を平定して王国を再建し、1932年、国名をサウジアラビア王国と
改めて現在に至っている。
シリアでは、19世紀初期にアメリカやフランスの宣教師によってキリスト教
の布教活動が行われた。これに対して、キリスト教布教に刺激されたイスラム
知識人を中心にアラブの文芸復興運動が起こり、現代アラビア語が確立するな
どした。
エジプト
16世紀以後、エジプトはオスマン帝国の支配下に入った。1798年にナポレオ
ンがエジプトに遠征してカイロを占領し、これに対してイギリスとトルコの連
合軍がフランス軍を撃退した。1805年、アルバニア軍の指揮官であったムハン
マド=アリーがエジプト人の支持を獲得して太守(パシャ)に就任し、トルコ
もこれを承認した。
ムハンマド=アリーはエジプトの近代化を推進した。マムルーク勢力を駆逐
し、フランスの援助のもとで綿花栽培の奨励や近代的陸海軍の創設、近代的工
業の導入などの富国強兵政策を展開し、教育制度改革も行った。また、1818
年、オスマンの指示によりムハンマド=アリーはオスマンの指示でアラビア島
に出兵し、ワッハーブ王国を中断させた。
ムハンマド=アリーはオスマン帝国に対してエジプトの自立とシリアの領有
を要求し、オスマン帝国に拒否されたため、1831年に第一次エジプト=トルコ
戦争が起こった。この際、ロシアがトルコを支援し、フランス・イギリスがエ
ジプトを支援するなど列国が介入し、ロシアはトルコから両海峡の通行権を手
に入れた。1839年、トルコはムハンマド=アリーを討伐するため第二次エジプ
ト=トルコ戦争を起こした。この時はフランスがエジプトを支持したが、他の
列強はトルコを支援した。この結果エジプトは屈し、戦後処理のロンドン会議
では、両海峡の中立化などにより列国の利害を調整するとともに、アリーはト
ルコの宗主権下でエジプトとスーダンの世襲太守となることが決まった。
その後1840年代になると、エジプトではイギリスの経済的進出が活発化し、
鉄道建設なども行われた。1858年、フランス技師レセップスの提唱によって国
際スエズ運河会社を設立して運河建設が始まり、1869年に完成した。しかし、
エジプトの財政は1860年代から困窮しており、1875年にイギリスのディズレー
リ内閣がスエズ運河会社株を買収したことでイギリスの運河支配が強まった。
エジプトの財政が破綻すると、イギリスやフランスによる財政管理や内政への
干渉も行われた。
こうした外国の支配に反発し、アフガーニーらイスラム原理主義者の思想に
影響を受けたアラービー=パシャは、1881年にアラービー=パシャの乱を起こ
した。しかし、これに対してイギリスはエジプトに単独出兵し、全土を軍事占
領して事実上保護国化した。
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2カッコ抜き
ヨーロッパのアジア進出
17世紀から18世紀にかけて、アジアでは専制王朝が最盛期を迎えていた。一
方、ヨーロッパ諸国はアジア各国の沿岸の要地に商館を建設するなどして拠点
化し、重商主義政策のもとでアジアの特産品輸入に力を入れる一方、相互の文
化交流も見られた。19世紀、アジアの専制王朝は次々と衰退していき、産業革
命を遂げて巨大な生産力を持ったヨーロッパは、原材料の供給地と製品の市場
を求めてアジア諸国の領土的支配を目指し、この地域への武力進出を推進し
た。この結果、アジア各国は主権を喪失して植民地化され、政治的にヨーロッ
パへの従属を余儀なくされた。
こうした過程で、ヨーロッパから安価で高品質な工業製品が大量に流入した
ため、アジア各国の国内産業は破壊された。一方で、原料作物や嗜好品の単一
栽培が導入、あるいは強制されたため、経済がモノカルチャー化して自国の食
料供給にも事欠く地域もあらわれ、本来経済的に自給が可能であったアジア諸
国は経済的にもヨーロッパに従属するようになった。
オスマン帝国の衰退
オスマン帝国は第2回ウィーン包囲以後衰退を続けた。国内では、地方の離
反や自立傾向が強まり、支配下の他民族による民族反乱も起こった。また、イ
ェニチェリが暴力集団化して専横をきわめたり、宮廷内の抗争が激化したりし
た。一方で国外では、インド航路の開拓によってヨーロッパとアジアが直接貿
易するようになり、中継貿易の利を失って貿易利益が減少した上、カピチュ
レーションがしだいに不平等条約化していくなどの困難をかかえた。こうした
内憂外患のために18世紀には急激に衰退し、19世紀にはヨーロッパから瀕死の
重病人と呼ばれるまでになった。
1683年、第2回ウィーン包囲の失敗後、1699年に結ばれた( 1 )条約で
オスマントルコはハンガリーをオーストリアに割譲した。これをきっかけにバ
ルカン半島でのオスマン帝国支配は縮小を続け、一方でこの地域でのオースト
リアの覇権が確立した。18世紀、オスマン帝国はロシアやオーストリアの侵攻
にさらされ、敗北を重ねたために黒海沿岸地域やバルカンの一部の割譲を強い
られた。18世紀前半、メフメト3世が西欧文化の摂取に努め、富国強兵をは
かったいわゆるチューリップ時代があったが、これも失敗に終わり、オスマン
帝国は衰退を続けた。19世紀、領内の諸民族が離反して独立に動き出した。ギ
リシアは独立し、バルカン半島ではスラヴ系諸民族の民族主義が台頭した。エ
ジプトは自立し、アラビア半島やシリアではアラブの民族主義が高揚した。ま
た、こうした民族運動にヨーロッパ諸国が介入して東方問題が起こり、この地
域での国際紛争は絶えなかった。
衰退を続けるオスマン帝国では現状を打破するため改革が試みられた。19世
紀初頭、マフムト2世はイェニチェリ軍団の廃止や大土地所有の抑圧などを通
じてスルタンへの権力集中を図り、西欧化政策を開始した。1839年に即位した
アブデュル=メジト1世はギュルハネ勅令を発して( 2 )を開始し、宰相
のムスタファ=レシト=パシャの手によって上からの近代改革が行われた。こ
れ以後、1870年代までの間に行政機構改革や法律改革、近代的学校の創設や国
費留学生の派遣、国民皆兵制の導入などが行われたが、過度の借款の増加で自
由を失った財政が足かせとなった。1860年代、相次ぐ戦争などのために膨張し
た列強からの借款はついに返済不可能となって財政は破綻し、1875年にはイギ
リス・フランスによる経済的支配が始まって半植民地化した。
1876年、宰相のミドハト=パシャが( 3 )憲法を発布し、二院制議会や
責任内閣制などを定めて立憲君主政の政体を目指した。しかし、1877年に
( 4 )戦争が勃発すると、( 5 )は憲法を停止して専制を復活させ、
戦争を行った。結局オスマンは戦争に敗れ、1878年のベルリン条約でヨーロッ
パ側領土の大部分を失った。その後、トルコ国内では自由主義運動が展開さ
れ、青年将校や知識人、学生などが青年トルコ党を結成して憲法の復活を求め
た。1908年、( 6 )でミドハト憲法の復活は実現し、青年トルコは第一次
大戦末まで政権を担った。
アラブの民族主義
オスマンの衰退に伴って、アラビア半島でも自立を目指す動きが出た。18世
紀半ば、イスラム原理主義運動の一つとして( 7 )派の運動が起こり、イ
ヴン=アブド=アルワッハーブがコーランの尊重によるイスラムの原点回帰を
提唱した。1744年頃、土豪ムハンマド=ブン=サウードや民衆の支持によって
( 7 )王国が建設され、メッカ、メディナを占領してシリアにも進出し
た。これに対してオスマン帝国はエジプトのムハンマド=アリーを派遣して討
伐し、1818年にワッハーブ王国は滅亡した。1902年、サウド家の勢力がリャド
を中心に近隣を平定して王国を再建し、1932年、国名をサウジアラビア王国と
改めて現在に至っている。
シリアでは、19世紀初期にアメリカやフランスの宣教師によってキリスト教
の布教活動が行われた。これに対して、キリスト教布教に刺激されたイスラム
知識人を中心にアラブの文芸復興運動が起こり、現代アラビア語が確立するな
どした。
エジプト
16世紀以後、エジプトはオスマン帝国の支配下に入った。1798年にナポレオ
ンがエジプトに遠征してカイロを占領し、これに対してイギリスとトルコの連
合軍がフランス軍を撃退した。1805年、アルバニア軍の指揮官であった
( 8 )がエジプト人の支持を獲得して太守(パシャ)に就任し、トルコも
これを承認した。
ムハンマド=アリーはエジプトの近代化を推進した。マムルーク勢力を駆逐
し、フランスの援助のもとで綿花栽培の奨励や近代的陸海軍の創設、近代的工
業の導入などの富国強兵政策を展開し、教育制度改革も行った。また、1818
年、オスマンの指示によりムハンマド=アリーはオスマンの指示でアラビア半
島に出兵し、ワッハーブ王国を中断させた。
ムハンマド=アリーはオスマン帝国に対してエジプトの自立とシリアの領有
を要求し、オスマン帝国に拒否されたため、1831年に第一次( 9 )戦争が
起こった。この際、ロシアがトルコを支援し、フランス・イギリスがエジプト
を支援するなど列国が介入し、ロシアはトルコから両海峡の通行権を手に入れ
た。1839年、トルコはムハンマド=アリーを討伐するため第二次エジプト=ト
ルコ戦争を起こした。この時はフランスがエジプトを支持したが、他の列強は
トルコを支援した。この結果エジプトは屈し、戦後処理のロンドン会議では、
両海峡の中立化などにより列国の利害を調整するとともに、アリーはトルコの
宗主権下でエジプトとスーダンの世襲太守となることが決まった。
その後1840年代になると、エジプトではイギリスの経済的進出が活発化し、
鉄道建設なども行われた。1858年、フランス技師( 10 )の提唱によって国
際スエズ運河会社を設立して運河建設が始まり、1869年に完成した。しかし、
エジプトの財政は1860年代から困窮しており、1875年にイギリスの( 11 )
内閣がスエズ運河会社株を買収したことでイギリスの運河支配が強まった。エ
ジプトの財政が破綻すると、イギリスやフランスによる財政管理や内政への干
渉も行われた。
こうした外国の支配に反発し、アフガーニーらイスラム原理主義者の思想に
影響を受けた( 12 )は、1881年に( 12 )の乱を起こした。しかし、こ
れに対してイギリスはエジプトに単独出兵し、全土を軍事占領して事実上保護
国化した。
解答
1:カルロヴィッツ 2:タンジマート 3:ミドハト
4:露土 5:アブデュル=ハミト2世
6:青年トルコ革命(サロニカ革命) 7:ワッハーブ
8:ムハンマド=アリー 9:エジプト=トルコ 10:レセップス
11:ディズレーリ 12:アラービー=パシャ
*************************************************************
3一問一答
1:タンジマートを開始したオスマン帝国皇帝は誰か。
2:スエズ運河完成はいつか。
解答
1:アブデュル=メジト1世
2:1869年
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